秀吉全合戦

【四国平定戦】羽柴秀吉vs長宗我部元親 秀吉四国征伐

秀吉の四国平定戦! 羽柴秀吉vs長宗我部元親 【四国平定】 信長が「本能寺の変」で豪死して以来、織田家家老の「柴田勝家」を、「賤ケ岳の戦い」を破り、信長後継者として織田筆頭に成りあがっていた秀吉。 織田家内で内輪揉め「小牧長久手の戦い」では、家康に手痛い敗戦を喫していたものの、持ち前の政治力で織田家筆頭として、全国統一も目前となっていました。 残すは四国と九州。 当時の四国は、土佐の「長宗我部元親」が、1585年(天正13年)の伊予国の河野通直を降伏させており、四国をほぼ統一しており、秀吉との対立は悪化しておりました。 当初、元親の方から秀吉に対し和睦としての条件を、「伊予」一国の割譲としていたものの、秀吉はこれを拒否します。 秀吉が和睦に提示した案は、伊予と讃岐の2国の返上だったのです。 しかし元親は、信長から、四国の領土は「切り取り次第」と言われており、苦労を重ね統一した四国を、そう簡単に譲渡することは、元親にとって承服できる内容ではありませんでした。 よって、元親と秀吉の和睦交渉は決裂となり、合戦は避けられなくなり、ついに1585年6月16日に、秀吉は総勢10万を越える軍勢を四国へ出陣させるのでした。 これを秀吉の「四国平定戦」(四国征伐)と言っています。 四国平定戦 秀吉軍の上陸場所 合戦場 秀吉軍は、「3部隊」に分かれ四国へ上陸します。 「四国平定戦 赤:秀吉軍上陸場所 黒:陥落した主な諸城 青:長宗我部元親」 四国平定戦 兵力差 兵力差 【羽柴秀吉軍】 【長宗我部軍】 10万 4万 戦闘目的 【羽柴秀吉軍】 【長宗我部軍】 長宗我部討伐 討伐阻止 主な参戦武将 【羽柴秀吉軍】 【長宗我部軍】 羽柴秀長・羽柴秀次・小早川隆景・宇喜多秀家 他 長宗我部元親・香宗我部親奏・谷忠澄 他 四国平定戦 合戦のゆくえ 「讃岐」上陸 秀吉の本格的な四国平定戦は、この年(1585年天正13年)の7月上旬に「宇喜多秀家」「蜂須賀正勝」「黒田官兵衛」「仙石秀久」各隊が、現在の香川県高松市屋島東町「屋島」に上陸したことから始まります。 宇喜多隊は、まず最初に「高松城(当時の喜岡城)」を陥落させ、香西城・牟礼城を攻略します。
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【小牧長久手の戦い】池田恒興・森長可討死!家康、勝利するも無念の和議⁉

ついにあの両雄が激突! 秀吉vs家康 【小牧長久手の戦い】 「本能寺の変」で信長が討たれ、仇であった明智光秀を「山崎の戦い」で破り、「賤ケ岳の戦い」で柴田勝家を破る事で、信長の実質的後継者として織田家に君臨していた秀吉。 一時は秀吉方に付いていた「織田信雄」(信長次男)も、秀吉の天下人としての振る舞いが気に入りません。 信雄は、本来であれば信長の後継を担う主筋にあたる立場ですので、秀吉のこうした横柄な態度はどうにかしたいと思っています。 秀吉の益々高まる高慢な態度に信雄は、三河の徳川家康を頼ります。 家康も、主家である「織田信雄」を助ける、という大義を得られ、秀吉に対し兵を挙げます。 こうして、1584年(天正12年)3月から11月にかけて、尾張(現愛知県)を中心に起きた戦いを「小牧・長久手の戦い」と言います。 「羽柴秀吉」軍と、「織田信雄」「徳川家康」の連合軍とのあいだで行われました。 小牧長久手の戦い 古戦場 場所 アクセス 長久手の戦いの場所は、現在の愛知県長久手市武蔵塚になり、長久手古戦場公園として市民の憩いの場になっています。 小牧・長久手の戦いは、実際には愛知県の各所で合戦が行われています。(後述) 「小牧・長久手の戦い」 小牧長久手の戦い 秀吉vs家康! 決戦に至るまで! 織田信雄からの要請を受け、大義が成った家康は、越中の「佐々成政」や紀伊の「雑賀衆」「根来衆」、関東の「北条氏政」、四国の「長宗我部元親」らに要請し「秀吉包囲網」を形成します。 その時、1584年(天正12年)3月13日、家康が清洲城に到着したその日に、織田家譜代の家臣だった「池田恒興」が、突然寝返り「秀吉」側につき、「犬山城」を占拠します。 家康もすぐに反応し「小牧山城」へ出陣し、これを占拠します。(3月15日) 同じ3月15日、秀吉軍の「池田恒興」隊と「森長可」隊は羽黒砦に着陣。 しかし、この動きはすぐに家康に知られ、同日夜半、徳川軍の奇襲を受け、「森長可」勢の300余人が討死。 秀吉は大坂で長可が敗れたことを聞き、直ちに3万の兵を率い出陣、家康のいる「小牧山城」を北東から包囲するよう各武将を布陣させます。 そして、秀吉みずからは「楽田城」に本陣を構え、一方、信雄・家康連合軍は、「小牧山」に本陣を構え、両軍睨みあいの状況になりました。
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【賤ケ岳の戦い】秀吉vs勝家! 織田家継承はどちらの手に…?

織田家が分裂! 天下争い! 羽柴秀吉vs柴田勝家 【賤ケ岳の戦い】 織田信長が、「本能寺の変」で豪死した1年後、織田家の跡目争いとして、織田家筆頭家老である「柴田勝家」と、信長の敵討ちとして明智光秀を破った「羽柴秀吉」の戦い。 1583年(天正11年)4月、近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳辺りで起きました。 賤ケ岳の戦い 場所 アクセス 賤ケ岳の戦いの場所は、現在の滋賀県長浜市余呉町付近になり、琵琶湖に近い余呉湖の周りをぐるりと囲むような形で、秀吉隊と勝家隊が対峙しました。 合戦場所は、山の中腹から北国街道沿い(余呉湖右側)となり平地はわずかです。 「賤ケ岳の戦い」 賤ケ岳の戦い 秀吉vs勝家! 決戦に至るまで! 清須会議 信長が「本能寺の変」で豪死した25日後の6月27日、信長の後継者を決める会議が清州城で開かれました。 俗に言う「清須会議」です。 参加者は「柴田勝家」「丹羽長秀」「羽柴秀吉」「池田恒興」の4名。 信長の三男「織田信孝」を推す柴田勝家と、嫡男信忠の子である「三法師(のちの織田秀信)」を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が怒りました。 柴田勝家としては、織田家筆頭家老でもあり、百姓上がりで成り上がりの秀吉に思うようにさせたくありません。 しかし、織田家直系であり、信忠の嫡男「三法師」が家督を継承することに異論を唱えることは出来ず、結局は「三法師」が織田家家督を継ぎ、叔父の「織田信雄」と「信孝」が後見人となり、執権として秀吉以下、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制となりました。 この決定によって、それまで織田家の筆頭として最大の発言権を持っていた「柴田勝家」の影響力が低下し、代わりに「羽柴秀吉」が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられることになります。 秀吉は三法師傅役の「堀秀政」を巻き込み、同じ執権役である「丹羽長秀」と「池田恒興」を懐柔し秀吉陣営を形成します。 これに危機感を覚えた、三法師の叔父である「織田信孝」は、「柴田勝家」と組んで反秀吉陣営を構築し、会議から排除された「滝川一益」も加わり、織田家内部は二分されます。
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【山崎(天王山)の戦い】秀吉vs光秀 山崎で激突!天下はどちらに…⁉

信長、本能寺で豪死! 決戦!天王山! 羽柴秀吉vs明智光秀 【山崎(天王山)の戦い】 1582年(天正10年)6月3日夕刻、備中高松城(岡山)で、城主「清水宗治」と合戦中、明智光秀が毛利方への密書が届けられる間者を捕らえた秀吉軍。 密書には、昨日(2日)早朝に、主君「信長討死」を報せる内容でした。 秀吉は、信長の弔い合戦のために、ただちに毛利軍との和議(5日清水宗治切腹)を結び、6日未明から畿内へと戻る、いわゆる「中国大返し」を敢行します。 6月13日に、摂津国と山城国の境にある「山崎」において、「羽柴秀吉」と「明智光秀」が激突した戦いを「山崎(天王山)の戦い」と言います。 *天王山とは、頂点(優勝)を決する勝敗の分かれ目となる大事な機会(試合)をいい、プロ野球の公式戦終盤などで優勝を賭けた試合でよく使われていますね。 早速、紐解いてまいりましょう。 山崎(天王山)の戦い 場所 地図 アクセス 山崎(天王山)の戦いがあった場所は、現在の京都府乙訓郡大山崎町円明寺松田にあり、現在の大山崎IC一帯です。 秀吉軍と光秀軍が対峙しました。 「山崎(天王山)の戦い」 秀吉vs光秀!決戦に至るまで! 秀吉の中国大返し 秀吉が、本能寺の変の報せを受けたのが6月3日夕刻。(1582年天正10年) その時は、「高松城の戦い」の最中であったものの、毛利氏との講和を速やかに取りまとめ、主君信長の弔い合戦のため「明智光秀」を討つために、京に向けて全軍を取って返した約8日間にわたる軍団大移動のことを言います。(中国大返し) 備中高松城(岡山市北区)から、決戦の場となった山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られています。 中国大返し 道程 秀吉が中国大返しを開始したと言われる日は、清水宗治が自刃した4日の翌日の5日から6日未明と言われています。(浅野家文書)(惟任謀反記) 6日に「沼城」(岡山市沼区)に入り、7日夕方には当時の秀吉の本拠地であった「姫路城」まで到達しています。 秀吉軍は、姫路城で休息と、城内にある秀吉の全財産を家臣全員に分け与え、9日に京へ向け出発。 9日の正午に「明石」へ到着し、翌10日夜に「兵庫」へと進みます。
織田信長

【はげねずみ】信長がねね(秀吉妻)に送った手紙に、信長の優しい一面が…!

信長からねね(秀吉妻)へ送られた手紙! 秀吉はサルではなくはげねずみ…と呼ばれた⁉ 信長がねねに送った手紙とは? 織田信長といえば、冷酷残忍で冷酷無比のイメージがありますが、秀吉の妻である「ねね(おね)」に宛てた手紙が現存しているのをご存知でしょうか…。 秀吉の日ごろの「浮気」に悩む、ねねの内心を気遣った、優しい言葉で表現されているのです。 この手紙には、秀吉の事をいつもの「サル」ではなく、「はげねずみ」と現わしている点も見逃せません。 ドラマや映画などでは、サルと呼ばれていたイメージが強い秀吉も、信長が送った手紙では(はげねずみ)このような表現もしていたのですね…。 では実物を実際に見てみましょう。 信長の手紙 この書状は、1581年(天正9年)に書かれたとされており(天正4年説あり)、今も現存しており個人蔵となっています。(国重要美術品) 内容は下記の通りです。 ねねの安土城の来訪を喜び、ねねの美貌が以前よりも増して美しくなっていたことを喜んでいることが伺えます。 中文以降の、「…何方をたずね候えども、それさまほどのは、又ふたたび、かのはげねずみ、相もとめがたき間…」は、どこを訪ねても、あなたほどの妻は、かのはげねずみには難しかろう、と言っているところは、信長が秀吉を「サル」ではなく「はげねずみ」と言っているのが分かります。 「あなたもこれからは朗らかな気持ちで、妻らしく重々しく振る舞って嫉妬を起こさないように、言いたいことも少々我慢するほうがよい」は、あの冷徹なイメージの信長を、がらりと変える優しい信長に感じられます。 この、信長からねね宛てに送られた手紙は、信長の印象をがらりと変え、優しい性格の持ち主であった事を伺わせる、手紙と言えそうですね♪
秀吉全合戦

【墨俣一夜城】秀吉(木下藤吉郎)が築いた墨俣一夜城はウソ⁉

秀吉が一夜にして築いた「墨俣城」! 本当は真っ赤なウソ…⁉ 【墨俣一夜城】 この記事は、秀吉の合戦ではありませんが、秀吉(当時は木下藤吉郎)が、織田家臣の中で頭角を現した手柄(仕事)である「墨俣一夜城」を取り上げてみました。 現在の墨俣一夜城は、当時の文化や歴史を伝える「歴史資料館」として、美しい天守閣のお城となっています。 大河ドラマ等では、一夜にして築いたと言われる「墨俣一夜城」ですが、本当に一夜でこんなお城が築けたのでしょうか…? 史実上、墨俣(洲俣)には、「砦」としての機能は持ち合わせていたものの、現在のお城(天守閣)のようなものとは似ても似つかぬものだったのです。 では、なぜこのような「城」が築かれてしまったのでしょうか…。 これには「ある書物」が関係していたのです…。 早速、紐解いてみましょう…。 墨俣一夜城 場所 アクセス 墨俣城は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にある城です。 現在は「歴史資料館」になっています。 「墨俣一夜城」 墨俣一夜城アクセス 名鉄新岐阜駅からバスで20分 墨俣バス停から徒歩で15分 東海道新幹線岐阜羽島駅から車で15分 名神高速道路岐阜羽島ICから車で15分 東海道本線穂積駅から車で10分 墨俣城 秀吉の出世となった墨俣一夜城 1554年(天文23年)秀吉(藤吉郎)が、織田信長に仕えた時は、若干17歳でした。 当初は小者として、織田家の雑用の仕事をしていましたが、器用さのおかげか(口が達者なせいか)、後に信長の草履取り(ぞうりとり)として、信長の傍で仕えるようになりました。 (藤吉郎「秀吉」が、雪の降る寒い日に、信長の草履を抱きかかえて温めていた、という逸話は有名ですね) その秀吉(藤吉郎)が信長に仕えてから12年後、1566年(永禄9年)、「藤吉郎(秀吉)が一夜にして城を築いた」というのが墨俣一夜城です。 もともとこの地域は、大小4つの川(揖斐川・長良川・犀川・五六川)に挟まれ三角州となっている、「交通」と「運搬」の要所であり、尾張から美濃、近江へと、侵攻する際においても重要拠点であったことから、1561年にはすでに美濃侵攻の「洲俣要害」として機能していたようです。(信長公記) 築城(改修・増築)も幾度となく失敗に終わるが…
信長全合戦

【備中高松城の戦い】黒田官兵衛の水攻め完成!その時、本能寺で…⁉清水宗治の天晴な最期!

全長4㌔、高さ8mの堤防完成! 黒田官兵衛「水攻め」! その時、本能寺で…⁉ 【備中高松城の戦い】 1580年(天正8年)8月、毛利と組みしていた「石山本願寺」を制圧し、主導者であった「顕如・教如」を追い出すことに成功した信長は、その後、加賀一揆衆を平定し、北陸方面をほぼ手中に収め、甲斐の武田勝頼を1582年(天正10年)3月11日に倒し、武田家を滅亡させ、残るは中国方面の毛利を倒すのみとなっていました。 その秀吉の、中国侵攻の前に、壁として立ち塞いだのが、清水宗治の「備中高松城」でした。 織田軍の中国侵攻司令官である「羽柴秀吉」と、毛利軍「清水宗治」との間で合戦となったのが「備中高松城の戦い」と言います。 秀吉が、軍師「黒田官兵衛」による献策で、高松城を水攻めによって包囲したことから、「高松城の水攻め(水責め)」とも呼ばれています。 早速、紐解いてまいりましょう。 備中高松城攻め 場所 地図 アクセス 高松城は、現在の岡山県岡山市北区高松にあり、讃岐高松城と区別して「備中高松城」と呼ばれています。 羽柴秀吉による「水攻め」で有名となったお城です。 「備中高松城」 黒田官兵衛秘策!秀吉の水攻め 織田方に寝返った「宇喜多秀家」が領有する備前岡山から先は、毛利の勢力範囲であったため、織田軍と毛利軍は、備前・備中国境地帯で攻防を繰り広げることになります。 1582年(天正10年)3月15日、秀吉は2万の軍勢を率い姫路城を出陣します。 途中、「宇喜多」軍1万を加えた、総勢3万の軍勢で備中高松城へと入ります。 「備中高松城」は、当時としては少なかった低湿地を利用した沼城(ぬまじろ)であり、鉄砲・騎馬戦法にも強かったと言います。 城守は「清水宗治」で、5,000の兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況ではありませんでした。 そのため秀吉は、周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は3万の大軍で城を包囲します。 そして2度にわたって攻撃を試みるも、討って出た城兵の逆襲を受けて敗退します。 織田軍が「備中高松城」を包囲したという報せを聞いた「毛利輝元」は、4万の援軍を率い備中へと進軍、秀吉は信長に対して援軍を求めます。 信長からは、丹波を平定させた明智光秀隊を送るとの返事を得たものの、「備中高松城」の攻略に手をあぐねていました。
信長全合戦

【魚津城の戦い】北陸制圧をめぐる戦い… その時、本能寺で…?

織田軍vs上杉軍! 北陸制圧をめぐる戦い… その時、本能寺で何かが…? 【魚津城の戦い】 1578年(天正6年)に謙信が死去すると、上杉家では「御館の乱」を経て「上杉景勝」が当主となり、景勝は信長の敵である「武田氏」と同盟し(甲越同盟)、上杉・織田は引き続き敵対関係となっていました。 信長の北陸方面司令官である「柴田勝家」は、「手取川の戦い」で痛い敗戦はしたものの、謙信死後、1581年(天正9年)「荒川合戦」以降は、上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永、木舟城主・石黒成綱などが、信長によって次々と粛清され、北陸方面における織田方の基盤が万全のものとなっていました。 1582年(天正10年)3月11日に、織田信長は武田勝頼を自刃(甲州征伐)に追い込み、ついに「武田家」を滅ぼした矢先、丁度同日となった3月11日に柴田勝家が「魚津城」を囲んだものの、背後で「小島職鎮(ともしげ)」が上杉景勝と組み、「富山城」を奪われてしまします。 勝家は、すぐに「富山城」へ兵を向け、富山城に攻め込み奪還するも、その後、4万ともいわれる織田軍は再び「魚津城」への攻撃を再開し、上杉氏も3800ともいう兵を挙げ、立てこもりました。 この「魚津城」をめぐる、織田軍と上杉軍の合戦を「魚津城の戦い」と言います。 魚津城の戦い 場所 地図 アクセス 魚津城は、現在の富山県魚津市本町1丁目に位置し、別名を小津城、または小戸城といいます。 1582年(天正10年)6月2日に「本能寺の変」が起きた時に、柴田勝家が攻めていた城でも有名です。 魚津市指定史跡となっています。 「魚津城(黒)」 織田軍の動き 3月11日、一旦は「富山城」を奪われたものの、すぎに兵を向け奪還に成功した織田軍。 織田軍は再び「魚津城」を取り囲み、城守である「中川景泰」は、上杉景勝に援軍を求めますが、景勝は越後国境の織田軍や「新発田重家」の反乱も警戒せねばならず、兵を割くことが出来ません。 合戦は籠城戦へと持ち込まれます。 魚津城の戦い 織田軍vs上杉軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【上杉軍】 4万 3800 戦闘目的 【織田軍】 【上杉軍】 越中攻略 攻略阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【上杉軍】
信長全合戦

【甲州征伐】武田家滅亡!ついに追い込まれた「武田勝頼」!

ついに「武田勝頼」を追い詰めた信長軍! 最終決戦「織田信長vs武田勝頼」 【甲州征伐】 1573年(元亀4年)4月12日に「武田信玄」が死去して、その2年後の1575年(天正3年)5月21日に行なわれた「長篠の戦い」で信玄嫡男の「武田勝頼」が「信長・家康連合軍」に大敗。 名将であった家臣の多くを失い、武田家は急速に勢力を失います。 1581年(天正9年)3月25日の「第二次高天神城の戦い」でも、城将の「岡部元信」が勝頼に援軍を求めるも勝頼が送らず玉砕。 敗因が、勝頼が援軍を送らず見殺しにしたことで、勝頼の威信は失墜し、武田家の国衆の不信を植え付ける結果となりました。 武田家はますます窮地に追い込まれ、織田・徳川・北条の3方面から挟撃を受けて領国が危機的状況にある中で、勝頼の居城である「躑躅ヶ崎館」では防衛力が十分ではないと考え、現在の韮崎市にある「新府城」を築城し居城を移します。 ただ、この「新府城」は、2ヶ月で完成させた巨城で、余りの国衆や人民に対する負担は大きく、ここからも武田家は「内部崩壊」が始まっていました。 そして1582年(天正10年)2月1日、すでに勝頼への不信が募り、新府城への賦役が増大していたこともあり、ついに「木曽義昌」が織田信長に寝返ります。 木曽義昌は、織田領と武田領の通過点となる木曽谷の領主で、この地がどちらに転ぶかで大きく形勢が変わるほどの重要な地域でした。 信長は、木曽義昌の寝返りを好機ととらえ、2月3日に甲州征伐を決意。 嫡男「織田信忠」を総大将とする先発隊を出陣させます。 こうして始まった、織田信長と武田勝頼の合戦を「甲州征伐」(武田征伐)と言います。 甲州征伐(武田征伐) 場所 アクセス 織田軍と武田勝頼が最後の合戦となった「天目山」は、現在の山梨県甲州市大和町木賊野山になります。 武田勝頼は、上諏訪から新府城、天目山へと後退していきました。 「合戦となった場所(黒)」 武田家滅亡まで 織田軍の動き 当時の甲斐信濃侵攻は、「織田信忠」を総大将に、「池田恒興」、「森長可」、「河尻秀隆」らを主力とした信長軍が編成されており、今回の甲州征伐(武田征伐)は以下のような陣容となりました。 大将:織田信忠 先鋒:森長可、団忠正、木曾義昌、遠山友忠 本隊:河尻秀隆、毛利長秀、水野守隆、水野忠重
信長全合戦

【高野山制圧戦】延暦寺と同じ焼き討ちにしてくれるわっ!(信長)

真言宗総本山「高野山」! 比叡山延暦寺の二の舞となるか… 高野山vs織田信長 【高野山制圧戦】 「高野山」は空海(弘法大使)が開いた真言宗の総本山として、「比叡山延暦寺」と並ぶ信仰の中心であると共に、全国に散在する寺領の合計は17万石に達する紀伊の一大勢力となっていました。 その高野山と織田信長の関係が怪しくなったのが、1580年(天正8年)3月、「有岡城の戦い」で謀反を起こし、城兵を置き去りにして逃走した「荒木村重」の残党5人が高野山中に逃げ込み、これを捜索した際に、高野山側が、信長の向けた捜索隊32名を切り捨てたことから始まります。 荒木村重の残党が逃げた高野山中に、信長は7月に「前田利家」「不破光治」を使者として高野山へ差し向けたものの、「高野山」側は面会を拒否。 高野山が面会を拒む理由が分からない信長は、翌月の8月、今度は堺政所の「松井友閑」配下の足軽32人を高野山に差し向け、荒木残党の捜索を行ったところ、「高野山」側によって全員殺害されることになります。 高野山側は、足軽達が捜索ではなく「乱暴狼藉」を働いたため討った、としていますが、信長は32名全員の殺害に怒り、諸国の「高野聖(こうやひじり/勧進僧)」を捕えるよう命じます。 そして、同月の8月17日、捕らえた「高野聖」数百人を安土で斬殺します。 これが発端として、信長の高野山制圧へと進んでいった合戦が「高野山制圧戦」と言われています。 信長は、その年(1581年天正9年)の10月、三男「織田信孝(のぶたか)」を総大将に、13万7000の大大軍を率いて高野山に侵攻します。 高野山制圧戦 奥の院 場所 アクセス 高野山は、和歌山県高野山麓から紀ノ川南岸一帯に位置し、合戦は「紀ノ川」を挟んで行われ、北に織田軍、南に高野山軍の布陣でした。 「丸山城(黒)」 織田軍の動き 13万7000の織田軍に対し、高野山軍は3万6000の軍勢を率い、「紀ノ川」を南北に分かれて対峙した両軍。 総大将の「織田信孝」は背山城に本陣を構え、「松山新介」は多和城に着陣し、紀ノ川の北側は織田の軍勢で溢れかえっていました。 対する高野山の布陣は、伊都・那賀・有田郡から総動員し、軍師である「橋口隼人」を中心に、「高野七砦」と言われる7か所に砦を築き、織田軍の侵攻を防ぐ徹底抗戦の構えです。
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