織田信長

信長全合戦

長篠の戦い勝因わかりやすく!信長勝利の鉄砲3段撃ちは全くのウソだった‼

「長篠の戦い」とは。 1575年5月21日(天正3年)、長篠城(愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8千と、武田勝頼軍1万5千が戦った合戦。 もうすでにご存じのとおり、信長・家康連合軍が戦国時代の新兵器でもあった「鉄砲」を使い、戦国最強の「武田軍騎馬隊」に大勝利した戦です。 勝因は、鉄砲の唯一の弱点でもあった「弾込め」の時間を、3段に配列された鉄砲隊によって時間のロスなく撃てた事です。 しかし、最新の研究では、どうやら「3段撃ちが勝因ではない」という事が分かってまいりました。 この記事では、検証された新説を元に、長篠の戦いを解説してまいります。 これまでの定説「長篠の戦い」↓↓↓ 鉄砲 3段撃ち 従来の定説である「鉄砲3段撃ち」とは、馬防策を先頭として、鉄砲隊が3列に並び、1列ごとに「順に撃つ」というものでした。 射程距離:約50m 弾込め:約30秒 平均的な射程距離は約50m、1度撃つと次に撃つまでの弾込めは時間は約30秒。 鉄砲は、1発で敵を倒す力を持っているものの、撃ち損じは敵方が大幅に自陣に入り込んでしまう欠点も持ち合わせていました。 その鉄砲の唯一の弱点とされていた、弾込め(約30秒)を補うために、信長が用いた戦術が「3段撃ち」です。 織田信長は、この合戦に約3000丁を準備し、1000丁づつを入れ代わり撃たせたと記されています。(甫庵信長記/1624年) 武田騎馬の速さ 一方、戦国最強と言われた武田騎馬隊ですが、武者が乗った騎馬の速さはいったいどれくらいだったのでしょうか…? 当時の騎馬は日本固有の在来馬で、現在のサラブレットと比べ小型馬になります。 現在のサラブレッドが、体高約180cm、体重500kgに対し、当時の在来馬は、体高が約150cm、体重が約350kg~400kgと小型です。 走る速さというと、当時の在来馬に武者を乗せて走った場合、100mで約8~9秒。 鉄砲の射程距離であった50mであれば4~5秒程度であったとされています。 3段撃ちの真相は! 思ったより早くない⁉
織田信長

【織田信長】の名言・格言集 22選!

「泣かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」 「人間50年~」 「是非に及ばず」 「織田信長」と言えば、日本の歴史上の人物で、最も人気のある人物のひとりです。 誕生(1534年)は、尾張(現在の愛知県)の弱小大名の子として生まれ、幼い頃には「大うつけ」と呼ばれ、回りの臣従達は、まさか天下統一を望む大武将になるとは思っていませんでした。 織田信長が、歴史上に名前が挙がったのは、何といっても「桶狭間の戦い」で、大大名である「今川義元」を倒した合戦といわれています。 わずか10分の1の兵力(今川軍2万0000・織田軍2千000)で、巧みな情報戦と奇襲で挑み、見事、今川義元を討ち取りました。 一躍、歴史の表舞台に登場した信長は、その後、斬新な戦法を用い、そして資金となる経済流通の改革で、次々と敵対する諸大名を倒し、領土を広げていきます。 1582年3月には、戦国最強と言われた「武田氏」を討ち滅ぼし、天下統一目前と迫っていましたが、当年6月2日に「本能寺の変」で家臣であった明智光秀の謀反により豪死を遂げます。 地方の一介の弱小大名に過ぎなかった子倅が、天下統一の直前まで生き抜いた人生。 波乱万丈となった人生の中で、信長も数々の「名言」を残しています。 それは、現代に生きる私たちにも深く響く名言となっています。 ここでは、その名言を紹介し、その意味も考察してまいります。 織田信長 名言・格言・言葉集 信長の名言1 敦盛 「人間五十年 化天(下天)のうちを比ぶれば…」 最初にご紹介するのは、信長が好んだとされる幸若舞の「敦盛」です。 信長がまだ弱小大名だった頃、今川義元の大軍の前(桶狭間の戦い)に、窮地に追い込まれた時に舞ったことや、本能寺の変で自刃する際にも舞った(諸説あり)事でも有名です。 意味は、「人の命は50年と短きものだ、仏界と比べれば、まるで夢や幻のようであり、この世に生まれたからには、滅びないものはない」という意味になります。 信長の名言2 本能寺で蘭丸に対し放った言葉 「是非に及ばず」 1582年6月2日早朝、明智光秀が信長に対しクーデター(本能寺の変)を起こした際に、いち早くそれを知らせた蘭丸に対して、信長が応えた名セリフ。 信長の名言3 俳句ホトトギス 「鳴かぬなら~」 これは名言ではありませんが、信長の性格を表した俳句で有名です。
織田信長

【はげねずみ】信長がねね(秀吉妻)に送った手紙に、信長の優しい一面が…!

信長からねね(秀吉妻)へ送られた手紙! 秀吉はサルではなくはげねずみ…と呼ばれた⁉ 信長がねねに送った手紙とは? 織田信長といえば、冷酷残忍で冷酷無比のイメージがありますが、秀吉の妻である「ねね(おね)」に宛てた手紙が現存しているのをご存知でしょうか…。 秀吉の日ごろの「浮気」に悩む、ねねの内心を気遣った、優しい言葉で表現されているのです。 この手紙には、秀吉の事をいつもの「サル」ではなく、「はげねずみ」と現わしている点も見逃せません。 ドラマや映画などでは、サルと呼ばれていたイメージが強い秀吉も、信長が送った手紙では(はげねずみ)このような表現もしていたのですね…。 では実物を実際に見てみましょう。 信長の手紙 この書状は、1581年(天正9年)に書かれたとされており(天正4年説あり)、今も現存しており個人蔵となっています。(国重要美術品) 内容は下記の通りです。 ねねの安土城の来訪を喜び、ねねの美貌が以前よりも増して美しくなっていたことを喜んでいることが伺えます。 中文以降の、「…何方をたずね候えども、それさまほどのは、又ふたたび、かのはげねずみ、相もとめがたき間…」は、どこを訪ねても、あなたほどの妻は、かのはげねずみには難しかろう、と言っているところは、信長が秀吉を「サル」ではなく「はげねずみ」と言っているのが分かります。 「あなたもこれからは朗らかな気持ちで、妻らしく重々しく振る舞って嫉妬を起こさないように、言いたいことも少々我慢するほうがよい」は、あの冷徹なイメージの信長を、がらりと変える優しい信長に感じられます。 この、信長からねね宛てに送られた手紙は、信長の印象をがらりと変え、優しい性格の持ち主であった事を伺わせる、手紙と言えそうですね♪
信長全合戦

【備中高松城の戦い】黒田官兵衛の水攻め完成!その時、本能寺で…⁉清水宗治の天晴な最期!

全長4㌔、高さ8mの堤防完成! 黒田官兵衛「水攻め」! その時、本能寺で…⁉ 【備中高松城の戦い】 1580年(天正8年)8月、毛利と組みしていた「石山本願寺」を制圧し、主導者であった「顕如・教如」を追い出すことに成功した信長は、その後、加賀一揆衆を平定し、北陸方面をほぼ手中に収め、甲斐の武田勝頼を1582年(天正10年)3月11日に倒し、武田家を滅亡させ、残るは中国方面の毛利を倒すのみとなっていました。 その秀吉の、中国侵攻の前に、壁として立ち塞いだのが、清水宗治の「備中高松城」でした。 織田軍の中国侵攻司令官である「羽柴秀吉」と、毛利軍「清水宗治」との間で合戦となったのが「備中高松城の戦い」と言います。 秀吉が、軍師「黒田官兵衛」による献策で、高松城を水攻めによって包囲したことから、「高松城の水攻め(水責め)」とも呼ばれています。 早速、紐解いてまいりましょう。 備中高松城攻め 場所 地図 アクセス 高松城は、現在の岡山県岡山市北区高松にあり、讃岐高松城と区別して「備中高松城」と呼ばれています。 羽柴秀吉による「水攻め」で有名となったお城です。 「備中高松城」 黒田官兵衛秘策!秀吉の水攻め 織田方に寝返った「宇喜多秀家」が領有する備前岡山から先は、毛利の勢力範囲であったため、織田軍と毛利軍は、備前・備中国境地帯で攻防を繰り広げることになります。 1582年(天正10年)3月15日、秀吉は2万の軍勢を率い姫路城を出陣します。 途中、「宇喜多」軍1万を加えた、総勢3万の軍勢で備中高松城へと入ります。 「備中高松城」は、当時としては少なかった低湿地を利用した沼城(ぬまじろ)であり、鉄砲・騎馬戦法にも強かったと言います。 城守は「清水宗治」で、5,000の兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況ではありませんでした。 そのため秀吉は、周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は3万の大軍で城を包囲します。 そして2度にわたって攻撃を試みるも、討って出た城兵の逆襲を受けて敗退します。 織田軍が「備中高松城」を包囲したという報せを聞いた「毛利輝元」は、4万の援軍を率い備中へと進軍、秀吉は信長に対して援軍を求めます。 信長からは、丹波を平定させた明智光秀隊を送るとの返事を得たものの、「備中高松城」の攻略に手をあぐねていました。
信長全合戦

【魚津城の戦い】北陸制圧をめぐる戦い… その時、本能寺で…?

織田軍vs上杉軍! 北陸制圧をめぐる戦い… その時、本能寺で何かが…? 【魚津城の戦い】 1578年(天正6年)に謙信が死去すると、上杉家では「御館の乱」を経て「上杉景勝」が当主となり、景勝は信長の敵である「武田氏」と同盟し(甲越同盟)、上杉・織田は引き続き敵対関係となっていました。 信長の北陸方面司令官である「柴田勝家」は、「手取川の戦い」で痛い敗戦はしたものの、謙信死後、1581年(天正9年)「荒川合戦」以降は、上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永、木舟城主・石黒成綱などが、信長によって次々と粛清され、北陸方面における織田方の基盤が万全のものとなっていました。 1582年(天正10年)3月11日に、織田信長は武田勝頼を自刃(甲州征伐)に追い込み、ついに「武田家」を滅ぼした矢先、丁度同日となった3月11日に柴田勝家が「魚津城」を囲んだものの、背後で「小島職鎮(ともしげ)」が上杉景勝と組み、「富山城」を奪われてしまします。 勝家は、すぐに「富山城」へ兵を向け、富山城に攻め込み奪還するも、その後、4万ともいわれる織田軍は再び「魚津城」への攻撃を再開し、上杉氏も3800ともいう兵を挙げ、立てこもりました。 この「魚津城」をめぐる、織田軍と上杉軍の合戦を「魚津城の戦い」と言います。 魚津城の戦い 場所 地図 アクセス 魚津城は、現在の富山県魚津市本町1丁目に位置し、別名を小津城、または小戸城といいます。 1582年(天正10年)6月2日に「本能寺の変」が起きた時に、柴田勝家が攻めていた城でも有名です。 魚津市指定史跡となっています。 「魚津城(黒)」 織田軍の動き 3月11日、一旦は「富山城」を奪われたものの、すぎに兵を向け奪還に成功した織田軍。 織田軍は再び「魚津城」を取り囲み、城守である「中川景泰」は、上杉景勝に援軍を求めますが、景勝は越後国境の織田軍や「新発田重家」の反乱も警戒せねばならず、兵を割くことが出来ません。 合戦は籠城戦へと持ち込まれます。 魚津城の戦い 織田軍vs上杉軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【上杉軍】 4万 3800 戦闘目的 【織田軍】 【上杉軍】 越中攻略 攻略阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【上杉軍】
信長全合戦

【甲州征伐】武田家滅亡!ついに追い込まれた「武田勝頼」!

ついに「武田勝頼」を追い詰めた信長軍! 最終決戦「織田信長vs武田勝頼」 【甲州征伐】 1573年(元亀4年)4月12日に「武田信玄」が死去して、その2年後の1575年(天正3年)5月21日に行なわれた「長篠の戦い」で信玄嫡男の「武田勝頼」が「信長・家康連合軍」に大敗。 名将であった家臣の多くを失い、武田家は急速に勢力を失います。 1581年(天正9年)3月25日の「第二次高天神城の戦い」でも、城将の「岡部元信」が勝頼に援軍を求めるも勝頼が送らず玉砕。 敗因が、勝頼が援軍を送らず見殺しにしたことで、勝頼の威信は失墜し、武田家の国衆の不信を植え付ける結果となりました。 武田家はますます窮地に追い込まれ、織田・徳川・北条の3方面から挟撃を受けて領国が危機的状況にある中で、勝頼の居城である「躑躅ヶ崎館」では防衛力が十分ではないと考え、現在の韮崎市にある「新府城」を築城し居城を移します。 ただ、この「新府城」は、2ヶ月で完成させた巨城で、余りの国衆や人民に対する負担は大きく、ここからも武田家は「内部崩壊」が始まっていました。 そして1582年(天正10年)2月1日、すでに勝頼への不信が募り、新府城への賦役が増大していたこともあり、ついに「木曽義昌」が織田信長に寝返ります。 木曽義昌は、織田領と武田領の通過点となる木曽谷の領主で、この地がどちらに転ぶかで大きく形勢が変わるほどの重要な地域でした。 信長は、木曽義昌の寝返りを好機ととらえ、2月3日に甲州征伐を決意。 嫡男「織田信忠」を総大将とする先発隊を出陣させます。 こうして始まった、織田信長と武田勝頼の合戦を「甲州征伐」(武田征伐)と言います。 甲州征伐(武田征伐) 場所 アクセス 織田軍と武田勝頼が最後の合戦となった「天目山」は、現在の山梨県甲州市大和町木賊野山になります。 武田勝頼は、上諏訪から新府城、天目山へと後退していきました。 「合戦となった場所(黒)」 武田家滅亡まで 織田軍の動き 当時の甲斐信濃侵攻は、「織田信忠」を総大将に、「池田恒興」、「森長可」、「河尻秀隆」らを主力とした信長軍が編成されており、今回の甲州征伐(武田征伐)は以下のような陣容となりました。 大将:織田信忠 先鋒:森長可、団忠正、木曾義昌、遠山友忠 本隊:河尻秀隆、毛利長秀、水野守隆、水野忠重
信長全合戦

【高野山制圧戦】延暦寺と同じ焼き討ちにしてくれるわっ!(信長)

真言宗総本山「高野山」! 比叡山延暦寺の二の舞となるか… 高野山vs織田信長 【高野山制圧戦】 「高野山」は空海(弘法大使)が開いた真言宗の総本山として、「比叡山延暦寺」と並ぶ信仰の中心であると共に、全国に散在する寺領の合計は17万石に達する紀伊の一大勢力となっていました。 その高野山と織田信長の関係が怪しくなったのが、1580年(天正8年)3月、「有岡城の戦い」で謀反を起こし、城兵を置き去りにして逃走した「荒木村重」の残党5人が高野山中に逃げ込み、これを捜索した際に、高野山側が、信長の向けた捜索隊32名を切り捨てたことから始まります。 荒木村重の残党が逃げた高野山中に、信長は7月に「前田利家」「不破光治」を使者として高野山へ差し向けたものの、「高野山」側は面会を拒否。 高野山が面会を拒む理由が分からない信長は、翌月の8月、今度は堺政所の「松井友閑」配下の足軽32人を高野山に差し向け、荒木残党の捜索を行ったところ、「高野山」側によって全員殺害されることになります。 高野山側は、足軽達が捜索ではなく「乱暴狼藉」を働いたため討った、としていますが、信長は32名全員の殺害に怒り、諸国の「高野聖(こうやひじり/勧進僧)」を捕えるよう命じます。 そして、同月の8月17日、捕らえた「高野聖」数百人を安土で斬殺します。 これが発端として、信長の高野山制圧へと進んでいった合戦が「高野山制圧戦」と言われています。 信長は、その年(1581年天正9年)の10月、三男「織田信孝(のぶたか)」を総大将に、13万7000の大大軍を率いて高野山に侵攻します。 高野山制圧戦 奥の院 場所 アクセス 高野山は、和歌山県高野山麓から紀ノ川南岸一帯に位置し、合戦は「紀ノ川」を挟んで行われ、北に織田軍、南に高野山軍の布陣でした。 「丸山城(黒)」 織田軍の動き 13万7000の織田軍に対し、高野山軍は3万6000の軍勢を率い、「紀ノ川」を南北に分かれて対峙した両軍。 総大将の「織田信孝」は背山城に本陣を構え、「松山新介」は多和城に着陣し、紀ノ川の北側は織田の軍勢で溢れかえっていました。 対する高野山の布陣は、伊都・那賀・有田郡から総動員し、軍師である「橋口隼人」を中心に、「高野七砦」と言われる7か所に砦を築き、織田軍の侵攻を防ぐ徹底抗戦の構えです。
信長全合戦

【鳥取城攻め】人馬を食い漁る餓鬼道!鳥取の渇え殺し!

秀吉の兵糧攻め炸裂! 人馬を食い漁る「鳥取の渇え殺し」 【鳥取城攻め】 信長の中国方面司令官である「羽柴秀吉」は、安芸(広島)の「毛利」を攻め立てるために、1581年(天正8年)に鳥取城を攻めます。 備中(岡山)までは来たものの、この先、安芸(広島)への侵攻は毛利側の抵抗も激しくなり、そう易々とはなりません。 そこで秀吉は、中国地方の北部から攻め、毛利を追い詰めようと考えます。 1581年(天正9年)6月、秀吉は鳥取城攻略のため2万の大軍で姫路城を出陣しました。 そして始まった合戦が「鳥取城攻め」と言われるものです。 鳥取城攻め 場所 アクセス 鳥取城は、現在の鳥取市中心にあり、国の史跡に指定され、別名は久松山城といわれています。 「丸山城(黒)」 鳥取城兵糧攻め 秀吉軍の動き 秀吉軍が姫路城を出陣したことを知った、鳥取城の「吉川経家(きっかわつねいえ)」は、支城である丸山城に「塩屋高清(えんや たかきよ)」入れ抗戦の構えを見せます。 秀吉は「鳥取城」攻略に、鳥取城周辺の米を通常の2倍での高値で買い占めさせるよう指示します。 鳥取城下の人々は、その破格の値段に喜び、次々と米を売り払い、その噂を聞いた「鳥取城」の城番たちも城の備蓄米まで売ってしまいます。 家臣たちはそれで得た金で、すぐにでも兵糧を買えばよいと考えていましたが、すでに城下には米は無く、その後間もなく、秀吉軍から城の周りを包囲されてしまいます。 秀吉はこの時、「鳥取城」への兵糧の補給路を完全に封鎖し、吉川経家は海上からの補給を試みるも、秀吉の水軍に阻まれ失敗。 「鳥取城」は一粒の米も補給できないまま籠城戦へと持ち込まれます。 秀吉の得意とした兵糧攻めが始まったのです。 鳥取城攻め 織田軍軍vs毛利軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【毛利軍】 2万 1400(城兵)+2000(町民ら) 戦闘目的 【織田軍】 【毛利衆軍】 鳥取城攻略 攻略阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【毛利軍】 羽柴秀吉・羽柴秀長・黒田官兵衛・堀尾吉晴・宮部継潤 他 吉川経家・中村春続・森下道誉・塩屋高清 他 合戦のゆくえ 「人」「馬」も喰らう秀吉軍の兵糧攻め
信長全合戦

【第二次天正伊賀の乱】2度の負けはない!伊賀忍者を一人残らず抹殺せよ!(信長)

伊賀国を焦土と化した地獄絵図! 信長狂気の集団殺戮ジェノサイド! 【第二次天正伊賀の乱】 1579年(天正7年)、「第一次天正伊賀の乱」で、次男の「織田信雄」単独の行動だったとはいえ、伊賀衆にゲリラ戦で大敗を喫していた信長。 1581年(天正9年)4月、「福地宗隆(ふくちむねたか)」、「耳須弥次郎(みみすやじろう)」の2人が安土にいる信長の所に訪れ、伊賀攻略の道案内をすると申し出ます。 9月3日、前回の合戦で敗戦の将となった「織田信雄」を再び大将に5万の兵で伊賀に侵攻します。 こうして再度、伊賀衆(忍者)と合戦となったのが、「第二次天正伊賀の乱」と言います。 第二次天正伊賀の乱 場所 アクセス 伊賀の乱の合戦があった場所は、現在の三重県伊賀市になります。 伊賀衆はゲリラ戦を得意としていたこともあり、本城としての場所を特定するよりは、自らが住むところが本城としての意味合いが強いようです。 伊賀市の中心、現在の「伊賀上野城」(元平楽寺)は国の史跡に指定されています。 「激戦となった平楽寺・比自山城・柏原城」 第二次天正伊賀の乱 織田軍の動き 9月3日、織田軍は5万の兵を各方面に配置し、伊賀を侵攻します。 配置は以下の通り。 「伊勢地口」:織田信雄・津田信澄 「柘植口」:丹羽長秀・滝川一益 「玉滝口」:蒲生氏郷・脇坂安治 「笠間口」:筒井順慶 「初瀬口」:浅野長政 「多羅尾口」:堀秀政・多羅尾弘光 そして9月6日に、本格的な攻撃が始ます。 第二次天正伊賀の乱 織田軍vs伊賀軍 布陣 戦力比較 兵力 【織田軍】 【伊賀軍】 5万 9000 戦闘目的 【織田軍】 【伊賀軍】 伊賀侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【伊賀軍】 織田信雄・織田信澄・滝川一益・丹羽長秀・蒲生氏郷・浅野長政 他 滝野吉政・町井清兵衛・森田浄雲・百地丹波 他 合戦のゆくえ 伊賀衆は、織田方の兵の多さに、「比自山城」に3500人、「平楽寺」に1500人で籠城します。 玉滝口から伊賀に侵攻していた「蒲生氏郷」隊は、河原で野営しているところ、伊賀忍者の得意とするゲリラ戦(夜襲)を受け、寝込みを襲われた蒲生氏郷隊は敗走。 笠間口の「筒井順慶」隊も同様に夜襲を受け、1000人が討ち取られます。
信長全合戦

【七尾城攻略】「長連龍」の執念!能登平定戦

一族を殺された「長連龍」の執念! 七尾城奪還に命を懸ける! 【七尾城攻略(能登平定戦)】 1577年(天正5年)、能登「七尾城」が上杉軍に侵攻されたため、柴田勝家が総大将として援軍を差し伸べますが、戦国最強ともいわれた「上杉謙信」の前に、成す術もなく大敗してしまった信長軍。 七尾城を救うどころか、七尾城は落とされ、しかも柴田軍は重臣を含む1000名を超える討死者を出し大損害となる敗戦でした。 その際、七尾城の守将として戦ったのが、「長続連(ちょうつぐつら)」で連龍(つらたつ)の父でした。 「長続連」は七尾城の守将として戦うも、「続連」が実権を握る事に不満を抱いていた「遊佐続光」と「温井景隆」が、上杉軍と通じ謀反。 「長続連」をはじめとする長一族は皆殺しとなりました。 今回の合戦は、「長続連」の五男である「長連龍(ちょうつらたつ)」の、能登七尾城奪還するまでの執念の合戦です。 この合戦は同時に、織田家にとって「能登平定」にも繋がる合戦となり、併せて紐解いてまいります。 一族皆殺しに合った、長連龍の復讐の鬼と化した「七尾城攻略(能登平定)戦」をご案内してまいります。 七尾城攻略(能登平定戦) 場所 アクセス 七尾城は、現在の石川県七尾市古城町にあった城で、国の史跡に指定されています。 「七尾城(青) 飯山菱脇(黒)」 七尾城攻略(能登平定)戦 織田軍の動き 信長軍が上杉謙信軍に敗れた「手取川の戦い」で、落ちた「七尾城」の守将であった「長一族」は皆殺しに合います。 このとき信長軍にに救われ、難を逃れたのが「長続連」の五男「連龍(つらたつ)」(好連/よしつら)でした。 七尾城攻略(能登平定)戦 織田軍vs上杉軍 布陣 戦力比較 兵力 【織田軍】 【上杉軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田軍】 【上杉軍】 能登攻略 攻略阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【上杉軍】 長連龍・神保氏張・菅谷長頼 他 温井景隆・三宅長盛・遊佐続光・遊佐盛光 他 合戦のゆくえ 連龍は、長一族が皆殺しに合った翌年の1578年(天正8年)8月、500の兵で、故郷の「穴水城」へ侵攻し一時は奪還に成功するも、3か月後の11月に上杉軍に追われ、守山城の「神保氏張」を頼ります。
タイトルとURLをコピーしました