お万の方(おまんのかた)は徳川家康の最初の側室とされる女性で、家康との間に双子の男子を産んだ。その双子のうちの一人が後の結城秀康(ゆうきひでやす)で、家康の次男として数えられる人物だ。「双子は畜生腹」という当時の迷信によって冷遇されながらも、72歳まで生きた波乱の生涯は、戦国時代を生きた女性の実像を伝える貴重な史料として現代に残っている。
お万の方とは

徳川家康の最初の側室とされる女性
お万の方は1548年(天文17年)頃に生まれ、1620年(元和6年)に72歳で死去したとされる。徳川家康の最初の側室とされる女性で、院号は「長勝院(ちょうしょういん)」だ。家康の正室・築山殿(つきやまどの)の奥女中(おくじょちゅう)として仕えていたとも伝えられる。
長勝院という院号と複数の呼び名
お万の方は「長勝院」という院号で呼ばれることも多い。また「お万」「万」「万の方」「永見氏」という複数の呼び名でも史料に登場する。院号は出家後に与えられるものであり、息子たちの死後に出家したお万の方が長勝院と呼ばれるようになった。
もうひとりの於万の方との違い
長勝院のお万の方
本記事で扱う「お万の方(長勝院)」は徳川家康の最初の側室とされる女性で、結城秀康・永見貞愛という双子の男子の母だ。三河国(現在の愛知県東部)出身で、永見氏(ながみし)の家の生まれとされる。
徳川家康の別の側室として知られる於万の方
家康の側室には「於万の方(おまんのかた)」という同じ呼び名を持つ別の女性も存在する。紀伊国(現在の和歌山県)出身の女性で、徳川頼宣(よりのぶ・紀州徳川家の祖)・徳川頼房(よりふさ・水戸徳川家の祖)の母として知られる。名前の一致から混同されることがあるため、注意が必要だ。
お万の方の出自と家族関係

三河国の池鯉鮒神社に関係する家に生まれる
お万の方は三河国碧海郡(現在の愛知県知立市付近)の出身とされる。知立神社(ちりゅうじんじゃ・旧称:池鯉鮒大明神)に関わりを持つ永見家の出身だ。知立神社は三河国の有力な神社で、永見家はその神職・社家(しゃけ)として地域で一定の地位を持つ家柄だった。
父・永見貞英と永見家の系譜
お万の方の父は永見貞英(ながみさだひで)とされる。永見家は三河の在地有力者として徳川氏(松平氏)と古くから関係を持っていた家系だ。お万の方が徳川家康の側室となった背景には、この地縁的・家柄的なつながりがあったと考えられる。
徳川家康の母・於大の方との関係
お万の方は徳川家康の従兄妹にあたるとされる
お万の方と徳川家康の関係については、両者が従兄妹(いとこ)の関係にあったとする説がある。家康の母・於大の方(おだいのかた)の実家・水野家とお万の方の家系の関係性から、この血縁説が生まれている。ただし史料による確証は限られており、確定的な結論には慎重を要する。
水野忠政の血筋とのつながり
於大の方の父・水野忠政(みずのただまさ)の系統とお万の方の家系のつながりについては複数の説がある。戦国時代の三河・尾張の有力者同士が婚姻・血縁によって複雑に結びついていたという状況の中で、お万の方と家康の血縁関係が生じていた可能性は否定できない。お万の方の生涯と結城秀康の詳細については刀剣ワールドの解説も参考になる。
お万の方と徳川家康の関係

築山殿の奥女中だったとされる背景
お万の方は家康の正室・築山殿(関口氏の娘・瀬名氏とも)に奥女中として仕えていたとする伝承がある。奥女中とは正室・側室の身の回りの世話をする女性で、大名家における重要な役職だ。主人の夫である大名が奥女中を側室にするという事例は戦国時代に珍しくなかった。
徳川家康の側室となった経緯
お万の方が家康の側室となった具体的な経緯については、詳細な史料が限られている。時期については家康が三河を本拠地としていた1560年代と推定されることが多い。家康の最初の側室とされる点が、後世において特別な注目を集めている理由の一つだ。
戦国時代における側室の役割
家を存続させるための婚姻と出産
戦国時代において男子の出産は家の存続に直結する問題だった。正室が男子を産まない場合、側室が跡継ぎを産むことが期待された。お万の方が家康の側室となった背景にも、正室・築山殿との間に男子(信康)が生まれていたが、より多くの後継者を確保するという戦国大名としての現実的な要請があったと考えられる。
正室と側室の立場の違い
戦国時代の正室と側室の立場の違いは明確だった。正室は家と家の政治的同盟を体現する存在として高い地位を持ち、側室は子を産む役割を担いながらも正室より低い立場に置かれた。お万の方が冷遇された背景には、この身分的な差異と後述する双子への迷信が複合的に作用していた。
お万の方が産んだ双子の男子

徳川家康との間に双子を出産
お万の方は徳川家康との間に双子の男子を産んだ。生年については1574年(天正2年)説が有力とされる。双子のうちの一人が後の結城秀康で、もう一人は永見貞愛(ながみさだちか)と名付けられた。
当時の双子に対する迷信
戦国時代の日本では双子の出産に対する強い偏見が存在した。動物が一度に複数の子を産むことへのたとえから、双子は「畜生腹(ちくしょうばら)」として忌み嫌われた。この偏見は地域・時代によって差があったが、戦国時代の武家社会では広く信じられていたとされる。
双子が忌み嫌われた「畜生腹」という考え方
戦国時代の価値観と出産をめぐる事情
「畜生腹」という考え方は、人間が一度に一人の子を産むことが「正常」で、複数を産むことが「動物的」という偏見に基づいていた。この考え方は医学的根拠のない迷信だが、当時の人々の間では現実の差別として機能した。双子を産んだ母親が冷遇され、双子の子供たちも不吉な存在として扱われるという事例が戦国時代の記録に残っている。
お万の方が冷遇された理由
お万の方が冷遇された主たる理由の一つが、この「畜生腹」という迷信だ。家康の側室として男子を産んだにもかかわらず、双子という事実が彼女と子供たちへの扱いを悪化させた。結城秀康が家康に長く認知されなかったことも、この双子への偏見と深く関係しているとされる。
永見貞愛と結城秀康の誕生

双子のひとり・永見貞愛
永見家へ養子に出された背景
双子のうちの一人は「永見貞愛(ながみさだちか)」として母方の家・永見家に養子として出された。双子を家康の子として両方育てることへの抵抗・あるいは永見家の家名存続という現実的な事情が背景にあったと考えられる。
池鯉鮒神社を継いだとされる人物
永見貞愛は知立神社(池鯉鮒大明神)の神職として永見家を継いだとされる。母・お万の方の実家の家名と神職を継ぐという役割を担ったことで、永見家の系統は後世に続いた。
双子のもうひとり・結城秀康
徳川家康の次男として生まれる
もう一人の双子は後に「結城秀康(ゆうきひでやす)」として知られる人物で、徳川家康の次男として数えられる。しかし生まれた当初から複雑な立場に置かれ、家康にすぐには認知されなかったという経緯を持つ。
幼名・於義伊と徳川姓を名乗れなかった理由
秀康の幼名は「於義伊(おぎい・おぎやい)」だった。家康の嫡男・松平信康(まつだいらのぶやす)が正室・築山殿の産んだ子として「松平」を名乗ったのに対し、秀康は長く「松平」「徳川」という姓を与えられなかった。双子への偏見・母の立場の弱さ・当時の政治的状況という複数の要因が、秀康のこの扱いに影響したとされる。
お万の方と築山殿の逸話
築山殿が激怒したとされる伝承
お万の方に関する有名な伝承の一つが、築山殿(家康の正室)がお万の方の懐妊を知って激怒したというエピソードだ。この伝承では、築山殿がお万の方を庭の木に縛りつけて折檻したとも語られている。
庭の木に括り付けられたという話の真偽
この逸話については、史料的な根拠が乏しいことが指摘されている。江戸時代以降に書かれた伝記・軍記物・地誌の類には劇的な逸話が創作・誇張されて記録される例が多く、築山殿によるお万の方への折檻という話もその類の可能性が高いとする見方が現代の研究では主流だ。
後世の創作と考えられる理由
史料から見る築山殿との関係
築山殿とお万の方の具体的な関係を示す同時代の一次史料は限られており、折檻の逸話を裏付ける確実な証拠は見つかっていない。江戸時代に書かれた「三河物語」「武徳編年集成」などの史書に類似の話が記録されているが、これらは成立時期や史料的信頼性に問題がある。お万の方と築山殿の関係についての史料的な検討はこちらでも確認できる。
歴史上の逸話を読むときの注意点
歴史上の女性に関する逸話は特に後世の創作・誇張が加わりやすい。「嫉妬深い正室」「冷遇された側室」という物語的な型に当てはめた逸話が実際の史実として語られるようになった事例は、日本史に数多く存在する。お万の方の逸話も、史実と後世の創作を区別して理解することが重要だ。
結城秀康が徳川家康に冷遇された理由
父・徳川家康とすぐに対面できなかった幼少期
結城秀康は生まれてから相当の期間、父・家康に正式に認知されなかったとされる。双子への偏見・母の立場の弱さという要因に加え、当時の家康が信康を嫡男として育てることに注力していた政治的状況も、秀康の立場を弱めた要因の一つだ。
松平信康が父子の対面を促した逸話
異母兄・松平信康が家康と秀康の対面を仲介したという逸話が伝わっている。信康が幼い秀康を家康の前に連れて行き、父子の対面を実現させたというこのエピソードは、後に信康が処刑されることになる悲劇の伏線としても語られることがある。この逸話の史料的信頼性についても諸説あるが、信康と秀康の異母兄弟としての関係を示すエピソードとして引用されることが多い。
徳川家の跡継ぎ候補にならなかった背景
松平信康の死と徳川家の後継問題
1579年(天正7年)に嫡男・松平信康が切腹した後、家康には次男・秀康が存在したにもかかわらず、秀康が後継者として扱われることはなかった。この背景には双子への偏見・秀康の母の低い立場・当時の政治状況という複合的な要因がある。信康の死後に生まれた三男・長丸(後の徳川秀忠)が後継者として育てられることになった。
時代情勢が結城秀康の運命に与えた影響
秀康の運命は個人の資質より時代の政治状況に大きく左右された。豊臣秀吉との関係・徳川家の政治的立場・双子への社会的偏見という当時の状況が組み合わさって、秀康は「家康の子でありながら家康の後継者にはなれない」という複雑な立場を生きることになった。
結城秀康の養子入りと人質としての役割
小牧・長久手の戦い後に豊臣秀吉の養子となる
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いの後、徳川家康と豊臣秀吉の間で和睦が成立した際、秀康は秀吉の養子として豊臣家に送られた。この養子入りは実質的に「人質」としての側面を持っており、徳川が豊臣の権威を認める政治的意思表示の一環だった。
羽柴三河守秀康と名乗った時期
豊臣秀吉の養子となった秀康は「羽柴三河守秀康(はしばみかわのかみひでやす)」と名乗った。「秀康」という名の「秀」は秀吉から一字を与えられたもので、この命名は秀吉との主従関係を明確に示すものだった。
結城家へ養子に入り結城秀康となる
豊臣家・徳川家・結城家の関係
1590年(天正18年)に秀康は下総国(現在の茨城県)の結城晴朝(ゆうきはるとも)の養子となり、「結城秀康」を名乗った。結城家は関東の有力大名で、嗣子がなかった晴朝が養子を求めたことと、豊臣秀吉の意向が合わさってこの養子縁組が実現した。
戦国時代における養子と人質の意味
戦国時代の養子入りは現代の養子縁組とは異なり、政治的な意味合いが強かった。有力大名の子が他家に入ることで、両家の政治的同盟が確認・強化されるという機能を持っていた。秀康の結城家への養子入りも、豊臣・徳川・結城という三者の政治的関係の中で実現したものだ。お万の方(長勝院)の詳細な史料と生涯の記録についてはWikipediaでも確認できる。
お万の方の晩年
息子たちと離れて過ごした長い年月
お万の方は双子の男子を産んだ後、長い期間を息子たちと離れて過ごした。秀康が秀吉の養子となり結城家に入ってからは、物理的にも距離が生まれた。一方の永見貞愛は永見家として知立に留まったため、お万の方が常に息子の傍にいられる状況ではなかった。
永見貞愛を気遣う手紙に見える母の思い
お万の方が息子・永見貞愛に宛てた手紙が現存しているとされ、母としての気遣いと愛情が記されている。このような文書史料が残っていることは、お万の方という人物の実像に近づくための貴重な手がかりだ。戦国時代の女性が自ら書いた文書は希少であり、お万の方の手紙はその意味でも重要な史料価値を持つ。
結城秀康と北ノ庄城で暮らした短い時間
母子が再会できた背景
関ヶ原の戦い(1600年)後、結城秀康は越前国(現在の福井県)68万石の大大名として北ノ庄城(きたのしょうじょう・現在の福井市)に入った。この時期、お万の方も秀康のもとに移り、母子がともに暮らす時間が生まれた。長年の別離を経た母子の再会だった。
約7年で終わった親子の生活
しかしこの親子の生活は長くは続かなかった。結城秀康は1607年(慶長12年)に33歳という若さで病死した。お万の方が秀康と暮らした北ノ庄での生活は約7年で終わりを迎えた。息子の早すぎる死が、お万の方の晩年に深い悲しみをもたらした。
息子たちの死とお万の方の出家
永見貞愛の死
双子の一人・永見貞愛の没年については史料によって差があるが、結城秀康より先に亡くなったとする説が多い。二人の息子の死をお万の方は相次いで経験することになった。
結城秀康の死
1607年(慶長12年)、結城秀康は33歳で死去した。梅毒による病死とする説が有力とされている。家康の次男でありながら家康より先に世を去った秀康の早死は、お万の方にとって最大の悲劇だった。
徳川家康の許可を得ずに出家したとされる理由
息子たちの菩提を弔った晩年
お万の方は息子たちの死後に出家したとされる。戦国時代・江戸初期において、武家の女性が出家するには主君(この場合は家康)の許可が必要とされた。お万の方が家康の許可を得ずに出家したという伝承は、息子たちへの深い悲しみと母としての強い意志を示すものとして語られている。ただしこの逸話の史料的確認については検討の余地がある。
72歳まで生きたお万の方の最期
お万の方は1620年(元和6年)に72歳で死去したとされる。息子たちより長命だったお万の方の晩年は、長勝院という院号とともに息子たちの菩提を弔うことに費やされたと考えられる。
お万の方の血筋と現代皇室とのつながり
結城秀康から越前松平家へ続く系譜
結城秀康の死後、越前国の支配は秀康の子孫に引き継がれた。秀康の血筋から「越前松平家(えちぜんまつだいらけ)」が形成され、江戸時代を通じて重要な大名家として続いた。お万の方という一人の側室の血脈が、越前松平家という有力大名家として後世に続いた。
松平忠直・松平忠昌・松平直良の系統
秀康の嫡男・松平忠直(まつだいらただなお)・次男・松平忠昌(まつだいらただまさ)・松平直良(まつだいらなおよし)という秀康の子供たちがそれぞれの系統を形成した。この子孫の広がりが、お万の方の血筋が多方面に受け継がれる基盤となった。
お万の方の血裔が現代まで続く意義
戦国女性の血筋が歴史に残した影響
戦国時代を「畜生腹」という偏見の中で生き抜いたお万の方の血筋が、越前松平家を経て現代まで続いているという事実は、歴史の連続性を実感させる。冷遇・別離・悲しみという波乱の生涯を送りながらも、その血脈が後世に受け継がれたことに歴史の皮肉と豊かさがある。
徳川家と皇室の系譜を知る手がかり
越前松平家の系譜は複雑な婚姻関係を通じて皇室・公家・他の大名家と結びついており、お万の方の血筋が広く社会に広がっていったことを示している。戦国時代の一人の女性の生涯が、現代に至る歴史の大きな流れの一部を形成しているという視点が、お万の方という人物への理解を深める。お万の方と結城秀康の詳細な系譜についての解説はこちらでも確認できる。
お万の方に関するよくある質問
お万の方とは誰ですか?
徳川家康の最初の側室とされる女性で、三河国の永見家の出身だ。院号は「長勝院」で、家康との間に双子の男子(永見貞愛・結城秀康)を産んだ。1548年頃生まれ、1620年に72歳で死去したとされる。
お万の方は徳川家康の側室ですか?
そうだ。家康の最初の側室とされており、正室・築山殿の奥女中として仕えていたとも伝えられる。双子の男子を産んだことで「畜生腹」という当時の迷信から冷遇されたとされる。
お万の方と長勝院は同じ人物ですか?
同じ人物だ。「お万の方」は通称・呼び名で、「長勝院」は出家後に与えられた院号だ。両方の名称が史料・歴史書に登場するが、指している人物は同一だ。
お万の方の子供は誰ですか?
徳川家康との間に双子の男子を産んだ。一人は永見家に養子として出された「永見貞愛」、もう一人は後に豊臣秀吉の養子・結城家の養子となった「結城秀康」だ。
結城秀康の母は誰ですか?
徳川家康の側室・お万の方(長勝院)だ。結城秀康は家康の次男として数えられる。秀康は1574年頃に双子として生まれ、1607年に33歳で死去した。
お万の方はなぜ冷遇されたのですか?
当時の「畜生腹」という双子への偏見が主たる理由の一つとされる。双子を産んだ母親は動物のようだとして蔑まれるという迷信が戦国時代に存在していた。また側室という立場の弱さも、冷遇の一因となったと考えられる。
お万の方の子孫は現代まで続いていますか?
結城秀康の子孫が越前松平家として江戸時代を通じて続いており、お万の方の血筋は後世に受け継がれた。越前松平家の系譜は複雑な婚姻を通じて広く社会に広がっている。
まとめ:お万の方は徳川家康の側室として波乱の生涯を歩んだ女性
徳川家康の最初の側室として双子の男子を産んだ
お万の方は徳川家康の最初の側室として、家康との間に双子の男子を産んだ。「畜生腹」という当時の迷信によって冷遇されながらも、72歳という長い生涯を全うした。その生涯は戦国時代を生きた女性の実像を伝える貴重な史料として、現代の歴史研究でも注目されている。
結城秀康の母として徳川家の歴史に深く関わった
お万の方が産んだ双子のうちの一人・結城秀康は、豊臣秀吉の養子・結城家の養子という波乱の人生を経て越前68万石の大名となった。その秀康の血筋が越前松平家として江戸時代を通じて続いたことで、お万の方という一人の側室の存在が徳川家の歴史に深く刻まれた。
冷遇や別離を経験しながらも血筋は後世へ受け継がれた
双子への偏見・息子たちとの長い別離・相次ぐ息子たちの死という悲しみの連続を経験したお万の方の生涯は、戦国時代の女性が置かれた厳しい現実を体現するものだ。しかしその血筋は越前松平家として後世に受け継がれ、現代へとつながっている。徳川家康の側室たちと江戸幕府の歴史をさらに深く知りたい方はこちらで詳しく解説している。冷遇という言葉で語られることの多いお万の方だが、その72年の生涯全体を通じた視点で見ることで、より豊かな歴史的人物像が見えてくる。
