上杉謙信

信長全合戦

【手取川の戦い】戦国最強「上杉謙信」出陣! 織田信長軍はいかに戦う⁉

織田軍、毘沙門謙信の前で犬死にか…⁉ 織田軍vs上杉謙信 【手取川の戦い】 【開戦までのいきさつ】 上杉謙信は、以前から一向一揆(本願寺)と戦っていたものの、「石山本願寺」「毛利輝元」「上杉謙信」3者による「反信長同盟」が成立した後は、越中を平定させ、1577年(天正5年)能登へ侵攻を開始します。 能登守護は、「畠山春王丸」が幼少のため、重臣の「長続連(ちょうつぐつら)」が実権を握っていました。 上杉軍の侵攻に、長続連は籠城作戦を取ります。 長続連は、七尾城に百姓や町人までも収容すると言った寛大な措置をしていましたが、1年以上の籠城戦に、城内で疫病が流行り当主の「畠山春王丸」が病死してしまいます。 春王丸の死により、家臣団や城内の者が揺れ危機的状況に陥ります。 このままでは上杉軍の攻撃(包囲)に、対抗できないと考えた「長続連」は、信長に救援を求め、信長もすぐに対応します。 8月8日、信長精鋭の柴田勝家を総大将として、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、金森長近らの豪華メンバー4万の軍勢で出発します。 そして9月23日、手取川付近で上杉軍と合戦となったのが「手取川の戦い」と言います。 手取川の戦い 場所 地図 アクセス 手取川古戦場は、現在の石川県白山市湊町手取川付近となります。 「手取川の戦い」 手取川の戦い 信長軍の動き 8月8日、柴田勝家を総大将に4万の軍勢で「北ノ庄城」出発した信長軍ですが、織田軍が到着する前の9月15日、以前より「長続連」が実権を握る事に不満を抱いていた「遊佐続光」と「温井景隆」ら上杉派が内応して謀反。 長続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、「七尾城」は乗っ取られてしまいます。 それを知らない信長軍は順調に進軍を続け、手取川を越え、小松村、本折村、阿多賀、富樫を焼き払い、手取川を過ぎた水島(加賀郡)で、以前から「柴田勝家」と不仲だったとされる「羽柴秀吉」が、合戦方針の相違で対立し、軍を離れてしまいます。 一方、織田軍接近を知った「上杉謙信」は、直ちに奪い取った七尾城を出撃、手取川手前にある「松任城」(加賀郡)を目指します。
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