丸山城

信長全合戦

【第一次天正伊賀の乱』伊賀忍者強し!信長次男「織田信雄」軍壊滅!

伊賀忍者強し! 信長次男「織田信雄」軍壊滅! 【第一次天正伊賀の乱】 北畠家の養子となり、「北畠具教(きたばたけとものり)」を暗殺(三瀬の変1576年)して、伊勢国を制圧していた信長の次男「織田信雄(おだのぶかつ)」は、隣国である伊賀国を自分の領土にすべく狙っていました。 2年後の1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士である日奈知城主「下山平兵衛」が信雄に通じ、伊賀国への案内を買って出ます。 その年の3月、信勝が滝川雄利(たきがわかつとし)に「丸山城」の修築を命じると、伊賀衆はこれを侵攻の前触れと驚き、「すぐに攻撃すべし」と、丸山城周辺の伊賀衆が集結し、10月25日に集結した忍者たちで総攻撃を開始し、不意を突かれた「滝川雄利」軍は混乱し伊勢国に敗走となります。 1度は敗れた「織田信雄」ですが、翌1579年(天正7年)9月16日に、再び8,000の兵を率い伊賀国に侵攻します。 こうして起こった伊賀との合戦を「第一次天正伊賀の乱」と言います。 この伊賀との戦いは、その後2度に渡って合戦が繰り広げられることになります。 第一次天正伊賀の乱 場所 アクセス 伊賀忍者の本城である「丸山城」は、現在の三重県伊賀市枅川にあります。 「丸山城(黒)」 「伊賀衆」の動き 「丸山城」が大規模な修築を始めた際に、伊賀国衆は、(丸山城修築が)ただ事ではない事に気づき、丸山城の西にある「天童山」に忍者を送り修築の様子をうかがいます。 とあり、3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されています。 すぐさま伊賀国衆が「平楽寺」に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議を決定。 「丸山城」周辺の伊賀国衆が集結し、10月25日に総攻撃を開始し勝利となります。 「信雄」の動き 伊勢だけでは飽き足らず、伊賀国も我が物としたい「信雄」は、侵攻の拠点となる「丸山城」の修築を「滝川雄利」に命じます。 これに気付いた「伊賀衆」は、すぐさま一致団結し、丸山城が完成される前に攻撃を仕掛けます。 信雄軍は、これに対応できず、伊勢へ敗走となってしまいます。 どうしても諦めきれない「信雄」は、翌天の1579年(天正7年)9月16日、父の「信長」に相談もせず独断で8000の兵を率いて侵攻します。
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