【刀根(刀禰)坂の戦い】越前朝倉氏滅亡への序曲!斎藤龍興ついに討死!
「室町幕府」滅亡! 元号「元亀」から「天正」へ! 1573年(元亀4年)7月18日、「槇島城の戦い」で15代将軍「足利義昭」が信長に敗れ、237年続いた「室町幕府」が事実上滅亡しました。 10日後の7月28日、元号は「元亀」から「天正」へと改元され、時代の流れは一気に信長へと流れて行きます。 その年の4月から7月にかけ、上京焼討ちと、槇島城の戦いで、15代将軍義昭を京都から追放させた信長は、一気に近江へと攻め上がります。 そこには、1570年(元亀元年)に、「金ケ崎の退き口」で裏切られた義弟「浅井長政」と同盟関係にある「朝倉義景」が存在しています。 浅井・朝倉を討つべく、信長は進軍し、8月14日に刀根坂(刀禰坂・とねざか)の地で両軍が合戦となったのが「刀根(刀禰)坂の戦い」と言われます。 両軍合わせて3000人以上の死者を出したといわれ激戦となった「刀根(刀禰)坂の戦い」を見てまいりましょう。 刀根(刀禰)坂の戦い 場所 地図 アクセス 現在の福井県敦賀市刀根(刀根坂峠)付近にあります。 朝倉氏滅亡への序曲 7月28日、信長の悲願だった元号が「天正」へと変わりました。 甲斐の憂いであった「武田信玄」もこの世を去り、信長は「姉川の戦い」から抵抗を続ける「浅井・朝倉」討伐に本腰を入れます。 8月2日には義昭側に付いていた「岩倉友通」を討ち、「三好三人衆」を壊滅させることに成功します。 6日には浅井長政の小谷城を包囲し、8日には小谷城のすぐ隣に合った山本山城の「阿閉貞征(あつじさだゆき)」がついに信長に降り、攻めあぐねていた浅井(小谷城)軍攻略にも一筋の光が見えてきました。 小谷城のすぐ北にある「大嶽砦」に着陣していた「朝倉義景」軍2万は、この時は動かず静観していましたが、12日信長は大雨が吹き荒れたのをきっかけに、朝倉軍のいる「大嶽(おおくず)砦」と「丁野(ようの)砦」へと攻撃を開始します。 信長軍の攻撃に対抗する朝倉軍ですが、この時朝倉本隊と小谷城は分断された状態であったため浅井側の援軍もなく、朝倉軍の両砦はやがて落ち、信長は降兵を殺さずに解き放ちます。 降兵から織田軍の情報を知った「朝倉義景」は、翌13日夜、戦いを中止し撤退を開始します。 しかし信長は、そうはさせまいと追撃を開始します。