【天王寺の戦い】光秀が危ない!信長よ、急げ!
信長急げ!明智光秀大ピンチ! 信長軍3000vs本願寺軍15000 【天王寺の戦い】 1570年(元亀元年)から、信長と石山本願寺(顕如)は仲が悪い! いわゆる、信長が無理難題を本願寺に突きつけ、そのたびに本願寺は抵抗してきただけの事。 1576年(天正4年)2月、安芸の「毛利輝元(もうりてるもと)」が足利義昭の信長包囲網の呼びかけに賛同し、石山本願寺への武器弾薬、兵糧を送り込んできました。 当時の本願寺は、信長に「長島一向一揆」「越前一向一揆」「浅井・朝倉家」を滅ぼされ、追いつめられた状態でした。 その最中での毛利輝元の参戦で、これにより本願寺主導者である「顕如」が勢いづき、畿内の信徒に動員令を出して5万の兵を集めます。 このことから、再び石山本願寺と織田信長の合戦が再燃することとになります。 こうして1576年(天正4年)5月7日に起こったのが「天王寺の戦い」と言われています。 天王寺の戦い 場所 地図 アクセス 天王寺の戦いの場所は、現在の「天王寺砦(てんのうじとりで)」大阪市天王寺区生玉寺町月江寺にあり、織田信長が石山本願寺攻めのために作った砦と言われています。 「現在の地図(位置)天王寺合戦場所は黒印」 天王寺の戦い 信長の動き 5万の兵が揃った本願寺に対し、信長は明智光秀、細川藤孝ら諸将を摂津方面に出陣させ体制を整えます。 森河内砦に「明智光秀」、守口砦に「細川藤孝」、八王子砦に「原田直政」、野田砦に「荒木村重」を配置します。 そして、本願寺周辺の刈畠を行い、「一般信徒(男女)は赦免するので城を出るように」という立て札を立てよ、と命じます。 これは今までの、長島・越前の一向一揆とは違う対応をしています。(長島・越前は一般信徒は皆殺ししています) 4月中旬、石山本願寺の周りを包囲した信長は、本願寺側の水路の確保先となっていた「三津寺」を攻撃する事を決め、「天王寺砦」に佐久間信盛嫡男「佐久間信栄」と「明智光秀」を配置させます。 そして5月3日、原田直正を先陣に「三津寺」に攻撃を仕掛けます。 天王寺の戦い 織田軍vs本願寺軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【本願寺軍】 3000 1万5000 天王寺の戦い 合戦のゆくえ 一気果敢に出陣する原田直正隊。