墨俣一夜城

秀吉全合戦

【墨俣一夜城】秀吉(木下藤吉郎)が築いた墨俣一夜城はウソ⁉

秀吉が一夜にして築いた「墨俣城」! 本当は真っ赤なウソ…⁉ 【墨俣一夜城】 この記事は、秀吉の合戦ではありませんが、秀吉(当時は木下藤吉郎)が、織田家臣の中で頭角を現した手柄(仕事)である「墨俣一夜城」を取り上げてみました。 現在の墨俣一夜城は、当時の文化や歴史を伝える「歴史資料館」として、美しい天守閣のお城となっています。 大河ドラマ等では、一夜にして築いたと言われる「墨俣一夜城」ですが、本当に一夜でこんなお城が築けたのでしょうか…? 史実上、墨俣(洲俣)には、「砦」としての機能は持ち合わせていたものの、現在のお城(天守閣)のようなものとは似ても似つかぬものだったのです。 では、なぜこのような「城」が築かれてしまったのでしょうか…。 これには「ある書物」が関係していたのです…。 早速、紐解いてみましょう…。 墨俣一夜城 場所 アクセス 墨俣城は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にある城です。 現在は「歴史資料館」になっています。 「墨俣一夜城」 墨俣一夜城アクセス 名鉄新岐阜駅からバスで20分 墨俣バス停から徒歩で15分 東海道新幹線岐阜羽島駅から車で15分 名神高速道路岐阜羽島ICから車で15分 東海道本線穂積駅から車で10分 墨俣城 秀吉の出世となった墨俣一夜城 1554年(天文23年)秀吉(藤吉郎)が、織田信長に仕えた時は、若干17歳でした。 当初は小者として、織田家の雑用の仕事をしていましたが、器用さのおかげか(口が達者なせいか)、後に信長の草履取り(ぞうりとり)として、信長の傍で仕えるようになりました。 (藤吉郎「秀吉」が、雪の降る寒い日に、信長の草履を抱きかかえて温めていた、という逸話は有名ですね) その秀吉(藤吉郎)が信長に仕えてから12年後、1566年(永禄9年)、「藤吉郎(秀吉)が一夜にして城を築いた」というのが墨俣一夜城です。 もともとこの地域は、大小4つの川(揖斐川・長良川・犀川・五六川)に挟まれ三角州となっている、「交通」と「運搬」の要所であり、尾張から美濃、近江へと、侵攻する際においても重要拠点であったことから、1561年にはすでに美濃侵攻の「洲俣要害」として機能していたようです。(信長公記) 築城(改修・増築)も幾度となく失敗に終わるが…
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