【守山城攻め】信次、信長の弟「秀孝(ひでたか)」を誤殺!
誤射で逃亡…! 「清州城攻略戦」で勝利し、織田信光から変わり守山城主となった「織田信次」は、1555年6月26日松川の渡し(庄内川)で川魚中、一人の少年が馬で通りかかり、その態度に腹を立てた家臣の「洲賀才蔵」が威嚇のため矢を放ったところ、それが運悪く少年に当たり命を落としてしまいます。 その少年が、信長の弟「秀孝」であったことで、守山城主「信次」は信長の怒りを恐れて逃亡してしまったことから、報復ともいえる戦となったのが「守山城攻め」のあらましです。 誤射とはいえ、信長の弟を殺してしまったゆえに、そのまま逃亡してしまうとは…、いくら何でも事が起こってしまいそうなもの…。 「守山城攻め」全容を見てまいります。 守山城攻め 背景 経緯 信次の家臣(洲賀才蔵)が誤射してしまうわずか2か月ほど前(4月20日)、信長と信次の兄である信光は「清州城攻略戦」により、敵対していた清州織田信友を自刃させ、尾張統一への足掛かりを作っていました。 信長の居城は那古野城から「清州城」へと移り、信光は守山城から「那古野城」へ、空いた守山城へ「信次」が城主となって入ることになりました。 これで尾張統一へ一気に加速すると思いきや、6月26日に信次は川魚中の渡し(庄内川)で、城主の目の前を馬に乗ったまま横切った少年を、家臣(洲賀才蔵)が腹をを立て威嚇するために矢を放ったものの、運悪く当り落命してしまいます。 落命してしまったその少年が信長・信行(信勝)兄弟の弟「秀孝」だったのです。 慌てた信次は、「信長が怒り、自分も殺される」と思ったのか、何も告げずに逃亡してしまいます。 何も告げずに逃亡した事がきっかけとなり、信長と信行(信勝)の怒りを買い「守山城攻め」が始まったのです。 守山城攻め 場所 合戦図 場所は現在の愛知県名古屋市守山区市場にあった平山城です。 (参考:Googleマップ) 弟「秀孝」の落命により、信長と信行(信勝)の行動は実に対照的な行動をとっています。 信行(信勝)は、居城である末森城からいち早く守山城に攻め入っています。 信長もすかさず状況を把握するために単騎乗り込んでいますが、事が分かった信長は清州へと引き換えします。 しかし信行は兵の侵攻を緩めず、城攻めを行っています。 それは、これ以上の離反者を出さないための措置であったと考えられています。