【槇島城の戦い】足利義昭追放!室町幕府ついに滅亡!
237年続いた「室町幕府」ついに滅亡! 室町幕府15代将軍「足利義昭」追放! 1573年(元亀4年)2月20日から7月18日にかけて起こった、室町15代将軍「足利義昭」と「織田信長」との戦いです。 1568年(永禄11年)9月、明智光秀の繋ぎによる「織田信長」に擁されて上洛以来、室町幕府第15代将軍に就いた「足利義昭」でしたが、当初は信長と信頼関係にあったものの、将軍権力の抑制を図る信長の行動により、次第に信長と対立するようになります。 1572年(元亀3年)9月には、信長から「17条意見書」が送られ2人の間は対立関係となってしまいます。(信長公記) 信長の、我(自分)を将軍として認めない信長の意見書や振る舞いに対し、義昭は信長に反する武将たちに味方するようにと、幾度となく密書を送り続けます。 義昭は近江「浅井長政」、越前「朝倉義景」、堺「石山本願寺」などを扇動して信長を包囲し(信長包囲網)、1572年(元亀3年)10月には、甲斐の「武田信玄」までが信長挟撃に賛同(西上作戦)しました。 信長包囲網の中、窮地に立たされた信長でしたが、信玄の体調が悪化判明し、翌元1573年1月には武田軍の攻勢が止まります。 信玄の動きが止まっても尚、翌月の2月20日に義昭は、信長に対し決起するのでした。(槇島城の戦い) 槇島城の戦い 場所 地図 アクセス 現在の京都府宇治市槇島町薗場にあります。 足利義昭ついに蜂起 義昭は1573年(元亀4年)2月に入り、ついに蜂起します! 当初は二条城で決起し、回りの堀をめぐらし武具を揃え、義昭側に付いた武将たちも砦や櫓を立て、いずれ来るであろう戦に備えました。 信長は義昭に、「島田秀満」「村井貞勝」らを使者として送り、信長は「もし和解せずば兵力を尽くして来たり、都を焼き、火と血に委ねん」として和睦を勧めますが、義昭はこれに対し反抗します。 信長は義昭の対抗するとの回答に、今堅田・石山砦を攻撃することを決めるのでした。 槇島城の戦い 織田軍vs足利軍 布陣 戦力比較 1573年(元亀4年)2月20日に義昭が決起した後、信長は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆の四将に24日に石山砦に攻撃をかけます。