ゲリラ戦

信長全合戦

【第二次天正伊賀の乱】2度の負けはない!伊賀忍者を一人残らず抹殺せよ!(信長)

伊賀国を焦土と化した地獄絵図! 信長狂気の集団殺戮ジェノサイド! 【第二次天正伊賀の乱】 1579年(天正7年)、「第一次天正伊賀の乱」で、次男の「織田信雄」単独の行動だったとはいえ、伊賀衆にゲリラ戦で大敗を喫していた信長。 1581年(天正9年)4月、「福地宗隆(ふくちむねたか)」、「耳須弥次郎(みみすやじろう)」の2人が安土にいる信長の所に訪れ、伊賀攻略の道案内をすると申し出ます。 9月3日、前回の合戦で敗戦の将となった「織田信雄」を再び大将に5万の兵で伊賀に侵攻します。 こうして再度、伊賀衆(忍者)と合戦となったのが、「第二次天正伊賀の乱」と言います。 第二次天正伊賀の乱 場所 アクセス 伊賀の乱の合戦があった場所は、現在の三重県伊賀市になります。 伊賀衆はゲリラ戦を得意としていたこともあり、本城としての場所を特定するよりは、自らが住むところが本城としての意味合いが強いようです。 伊賀市の中心、現在の「伊賀上野城」(元平楽寺)は国の史跡に指定されています。 「激戦となった平楽寺・比自山城・柏原城」 第二次天正伊賀の乱 織田軍の動き 9月3日、織田軍は5万の兵を各方面に配置し、伊賀を侵攻します。 配置は以下の通り。 「伊勢地口」:織田信雄・津田信澄 「柘植口」:丹羽長秀・滝川一益 「玉滝口」:蒲生氏郷・脇坂安治 「笠間口」:筒井順慶 「初瀬口」:浅野長政 「多羅尾口」:堀秀政・多羅尾弘光 そして9月6日に、本格的な攻撃が始ます。 第二次天正伊賀の乱 織田軍vs伊賀軍 布陣 戦力比較 兵力 【織田軍】 【伊賀軍】 5万 9000 戦闘目的 【織田軍】 【伊賀軍】 伊賀侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【伊賀軍】 織田信雄・織田信澄・滝川一益・丹羽長秀・蒲生氏郷・浅野長政 他 滝野吉政・町井清兵衛・森田浄雲・百地丹波 他 合戦のゆくえ 伊賀衆は、織田方の兵の多さに、「比自山城」に3500人、「平楽寺」に1500人で籠城します。 玉滝口から伊賀に侵攻していた「蒲生氏郷」隊は、河原で野営しているところ、伊賀忍者の得意とするゲリラ戦(夜襲)を受け、寝込みを襲われた蒲生氏郷隊は敗走。 笠間口の「筒井順慶」隊も同様に夜襲を受け、1000人が討ち取られます。
信長全合戦

【雑賀の陣】信長vs雑賀(鈴木)孫一!雑賀衆ゲリラ戦に信長苦戦!

雑賀衆ゲリラ戦強し! 織田信長vs雑賀孫一(鈴木孫一) 【雑賀の陣】 【開戦までのいきさつ】 1570年(元亀元年)、本願寺「顕如」の檄文により反信長体制を敷いた本願寺は、信長と度々小競り合いをするものの、信長軍としては本願寺を攻めあぐねていました。 つい半年前(1576年7月)の、「木津川口の戦い」でも毛利水軍に敗れ、信長は本願寺との戦局を打開すべく光明を探っていました。 その時(1577年2月)、これまで本願寺に組してきた雑賀衆の一部*と、根来寺の杉の坊が信長に帰順します。 これを雑賀制圧の好機ととらえた信長は、1577年2月13日に「京」を発ち、全国の諸将を動員して「雑賀」制圧へと動き出したのです。 こうして雑賀衆と織田信長の間で起きた合戦を「雑賀の陣」と言います。 雑賀の陣 場所 地図 アクセス 雑賀の陣の場所は、現在の和歌山県和歌山市紀ノ川河口付近一帯となります。 雑賀(鈴木)孫一がいたとされる雑賀城は、和歌山市和歌浦中3丁目にあり妙見山城とも呼ばれました。 「雑賀の陣」 雑賀の陣 信長の動き 信長は2月13日に「京」を出発し、16日には「和泉」に入り、翌17日には雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃するも、守備兵は前夜のうちに海路で紀伊へ退却していたので空振りに終わります。 同日「根来衆」と合流して18日に「佐野」、22日には「志立」(現泉南市)に本陣を移しました。 志立に着陣した信長軍は、総勢10万を超え、ここから海岸沿いと内陸の二手に分かれて紀伊の雑賀へと侵攻する手はずを整えます。 その陣容は、 【内陸山手側】 先導:根来衆・雑賀三組 「佐久間信盛隊」「羽柴秀吉隊」「堀秀政隊」「荒木村重隊」「別所長治・重宗隊」 【海岸沿い】 「滝川一益隊」「明智光秀隊」「長岡藤孝隊」「丹羽長秀隊」「筒井順慶・大和衆」「織田信忠」「北畠信雄隊」「神戸信孝隊」「織田信包隊」 以上のような編隊となりました。 雑賀の陣 織田軍vs雑賀軍 布陣 戦力比較 兵力差 【織田軍】 【雑賀軍】 10万 2000 戦闘目的 【織田軍】 【雑賀軍】 紀伊侵攻(雑賀討伐) 侵攻阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【雑賀軍】 織田信長・羽柴秀吉・堀秀政・別所長治・根来衆杉の坊 他 雑賀孫一・土橋若大夫 他
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