雑賀衆ゲリラ戦強し!
織田信長vs雑賀孫一(鈴木孫一)
【雑賀の陣】
【開戦までのいきさつ】
1570年(元亀元年)、本願寺「顕如」の檄文により反信長体制を敷いた本願寺は、信長と度々小競り合いをするものの、信長軍としては本願寺を攻めあぐねていました。
つい半年前(1576年7月)の、「木津川口の戦い」でも毛利水軍に敗れ、信長は本願寺との戦局を打開すべく光明を探っていました。
その時(1577年2月)、これまで本願寺に組してきた雑賀衆の一部*と、根来寺の杉の坊が信長に帰順します。
その理由は、元々雑賀荘には宗派の違う門徒がおり、本願寺(浄土真宗)派に属しない者は、おのずと反本願寺派となり、信長への恭順もあり得たのです。
これを雑賀制圧の好機ととらえた信長は、1577年2月13日に「京」を発ち、全国の諸将を動員して「雑賀」制圧へと動き出したのです。
こうして雑賀衆と織田信長の間で起きた合戦を「雑賀の陣」と言います。
雑賀の陣 場所 地図 アクセス
雑賀の陣の場所は、現在の和歌山県和歌山市紀ノ川河口付近一帯となります。
雑賀(鈴木)孫一がいたとされる雑賀城は、和歌山市和歌浦中3丁目にあり妙見山城とも呼ばれました。
雑賀の陣 信長の動き
信長は2月13日に「京」を出発し、16日には「和泉」に入り、翌17日には雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃するも、守備兵は前夜のうちに海路で紀伊へ退却していたので空振りに終わります。
同日「根来衆」と合流して18日に「佐野」、22日には「志立」(現泉南市)に本陣を移しました。
志立に着陣した信長軍は、総勢10万を超え、ここから海岸沿いと内陸の二手に分かれて紀伊の雑賀へと侵攻する手はずを整えます。
その陣容は、
【内陸山手側】
先導:根来衆・雑賀三組
「佐久間信盛隊」「羽柴秀吉隊」「堀秀政隊」「荒木村重隊」「別所長治・重宗隊」
【海岸沿い】
「滝川一益隊」「明智光秀隊」「長岡藤孝隊」「丹羽長秀隊」「筒井順慶・大和衆」「織田信忠」「北畠信雄隊」「神戸信孝隊」「織田信包隊」
以上のような編隊となりました。
雑賀の陣 織田軍vs雑賀軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【雑賀軍】 | ||
10万 | 2000 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【雑賀軍】 | ||
紀伊侵攻(雑賀討伐) | 侵攻阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【雑賀軍】 | ||
織田信長・羽柴秀吉・堀秀政・別所長治・根来衆杉の坊 他 | 雑賀孫一・土橋若大夫 他 |
雑賀の陣 合戦のゆくえ
海岸沿いの織田勢は、三手に分かれて孝子峠を越え、雑賀の防衛線を突破して南下し「中野城」を包囲。
2月28日に信長は、中野城すぐそばの淡輪に本陣を進め、その日には「中野城」を制圧。
3月1日、雑賀(鈴木)孫一の居城「雑賀城」を攻撃しました。
一方、内陸山手側の織田勢は、志立から風吹峠を越えて根来寺を通り、紀ノ川を渡って東から「雑賀城」に迫ります。
これに対し雑賀衆は「雑賀城」を本城となし、小雑賀川沿いに「弥勒寺城」を中心として北に4か所、南に3か所の砦を築き、川岸には柵を設けて防衛線を張りました。
2月24日、山手先鋒の「堀秀政隊」が小雑賀川の渡河を試みるも失敗。
雑賀衆は、あらかじめ雑賀川の底に「逆茂木」「桶」「壺」「槍先」などを沈めておいて渡り難くする狙いで、織田方が川を渡ろうとする際に、人馬が足を取られて前進できずにいるところを、対岸から二列横隊を組んで鉄砲で狙い撃ち、さらに弓隊が弓を射立てます。(紀伊国名所図会・巻之二・雑賀合戦)
この攻撃に織田方は、多大な損害を受け退却せざるを得ませんでした。
雑賀衆のゲリラ戦ともいえる戦術に、戦局は膠着状態となりますが、2週間後、雑賀側と織田側で停戦合意に達したために、3月15日に終戦となりました。
10万を超える大大軍を率いた織田信長でしたが、雑賀(鈴木)孫一のいる「雑賀城」を落とすことは出来ませんでした。
しかし、「停戦合意」した内容には、信長の摂津における状況に憂いが生じた場合、信長側に味方するとの約束が交わされたことによって停戦がなされたために、信長の一定の戦果があったとして、信長の勝利とします。
討死武将
【織田軍】 | 【雑賀軍】 | ||
不明 | 不明 |
【織田軍】 | 【雑賀軍】 | ||
停戦合意に有利な条件 | 停戦合意に不利な条件を飲まされた |
雑賀の陣 その後 まとめ
3月15日に戦闘は終了し、21日に信長は陣払いして京都へ引き揚げます。
反信長同盟を結んでいる、足利義昭や毛利輝元は「織田方は敗北した」と表明しました。
余談ですが、雑賀(鈴木)孫一は熊野の神官鈴木氏の一族で、幕紋に熊野神社の使いである八咫烏(ヤタガラス)を用いていました。
3本の足を持つ事で知られていますが、日本サッカーのエンブレムとしても有名ですね。
コメント