上月城の戦い

信長全合戦

【第二次上月城の戦い】山中鹿助奮闘!尼子再興なるか⁉

尼子再興の夢なるか…⁉ 毛利大軍の前に、山中鹿助、上月城を死守! 【第二次上月城の戦い】 【いきさつ】 昨年1577年(天正5年)12月、秀吉の播磨侵攻戦による「第一次上月城の戦い」で、「福原城」「上月城」を落城させたものの、年が明けた2月、三木城の「別所長治」が突然、毛利方へ寝返ります。 すると、未だ織田方か毛利方か、立場を明確にしていない播磨諸豪族衆が、別所長治の毛利方へ離反するとともにこぞってこれに同意。 秀吉の播磨侵攻に雲行きが怪しくなってまいります。 この背景には、「上杉謙信」の上洛という意図もあったと考えられ、この時点における播磨諸衆は試案のし所だったに違いありません。 いづれにせよ、三木城の別所長治が離反したとなれば、播磨における最重要拠点が、上月城から三木城へと移り、上月城の戦略的価値が低くなってしまったと言うほかありません。 織田方において戦略的価値が低くなったとはいえ、毛利側にとっての「上月城」は、播磨安芸間の交通の要所でもあり、宇喜多直家の要請もあり、「上月城」奪還の戦略を取ります。 別所長治が離反してから約2か月後の4月18日、「上月城」が毛利の3万の大軍で包囲されます。 「上月城」の包囲に、秀吉軍が救援に参陣し合戦となったのが、「第二次上月城の戦い」と言います。 第二次上月城の戦い 場所 アクセス 上月城(こうづきじょう)は、兵庫県佐用郡佐用町にある山城です。 「第二次上月城の戦い 上月城(黒)」 第二次上月城の戦い 信長と秀吉の動き 毛利軍に包囲された「上月城」の救援に向かう秀吉軍は、高倉山へと進出しますが、毛利の大軍3万の前に手が出せません。 こうしているうちにも、いつ、三木城の「別所長治」が後ろから責めてきてもおかしくありません。 秀吉は考えあぐねます。 信長はすぐに、秀吉への援軍を嫡男「信忠」を出陣させます。 しかしその援軍は、「上月城」ではなく、謀反を起こした三木城の「別所長治」討伐へ向けての援軍でした。 この命令に秀吉は、「上月城」を見捨てるしかありません。 守将となっている「尼子勝久」「山中鹿助」を前に、秀吉は城を脱出するようにと説得しますが、尼子再興の夢を秀吉に託し、協力し戦っている両者は徹底抗戦を選びます。
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【第一次上月城の戦い】秀吉よ、播磨を平定せよ!

秀吉の播磨侵攻戦!1stラウンド 秀吉よ、播磨を平定せよ! 【第一次上月城の戦い】 【いきさつ】 1576年(天正4年)7月の「第一次木津川口の戦い」で衝突以来、毛利軍との関係は敵対状態です。 その合戦で信長は、毛利水軍に敗れ石山本願寺への救援物資(兵糧・武器・弾薬)を入れられ、毛利と本願寺は「反信長同盟」を結んでいる状態です。 信長の播磨における制圧状況は「三木城」の別所長治と拠点に、御着城・姫路城・龍野城がありましたが、毛利側は信長の城を囲むように砦や城塞を築いていました。 1577年5月14日に、毛利方が水運の要衝である「英賀城」に集結するとの情報を得、信長は一気にそれを攻撃する命を播磨の諸将に通達します。 諸所の中には、後の秀吉の軍師となる「小寺(黒田)官兵衛」も含まれており、この合戦は見事織田方の勝利となります。 「英賀城」合戦の勝利によって、西播磨での戦況も好転したことを受け、信長はその年(1577年天正5年10月)、信貴山城の松永久秀討伐が終わった後に、「羽柴秀吉」を播磨に派遣することを決定します。 秀吉が播磨に着陣した1ヶ月後の11月29日、上月城主「赤松政範(あかまつまさのり)」と合戦になったのが、「第一次上月城の戦い」と言います。 第一次上月城の戦い 場所 アクセス 上月城は現在の兵庫県佐用郡佐用町にある山城です。 「第一次上月城の戦い 上月城(黒)」 秀吉の動き 「松永久秀」討伐が終わり、上洛していた秀吉は10月23日に播磨へ向けて出陣します。 播磨「姫路城」に着陣した秀吉は、まず播磨の国衆から人質を取って万全にした後、但馬南部の朝来郡を攻略し「竹田城」を落とし、異父弟の「小一郎(後の豊臣秀長)」を入れることによって北部の憂いを無くし、次に佐用郡の「福原城」に侵攻します。 すると、11月27日に福原城から出てきた城兵と交戦し、城主「福原則尚」他を討ち取り落城させます。 *秀吉は降ってきた城兵たちも許さず皆殺しにしています。(陰徳太平記) 第一次上月城の戦い 秀吉軍vs毛利軍 布陣 戦力比較 兵力差 【秀吉軍】 【宇喜多軍】 3万 1万 戦闘目的 【秀吉軍】 【宇喜多軍】 播磨侵攻 侵攻阻止 主な参戦武将 【秀吉軍】 【宇喜多軍】
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