秀吉の播磨侵攻戦!1stラウンド
秀吉よ、播磨を平定せよ!
【第一次上月城の戦い】
【いきさつ】
1576年(天正4年)7月の「第一次木津川口の戦い」で衝突以来、毛利軍との関係は敵対状態です。
その合戦で信長は、毛利水軍に敗れ石山本願寺への救援物資(兵糧・武器・弾薬)を入れられ、毛利と本願寺は「反信長同盟」を結んでいる状態です。
信長の播磨における制圧状況は「三木城」の別所長治と拠点に、御着城・姫路城・龍野城がありましたが、毛利側は信長の城を囲むように砦や城塞を築いていました。
1577年5月14日に、毛利方が水運の要衝である「英賀城」に集結するとの情報を得、信長は一気にそれを攻撃する命を播磨の諸将に通達します。
諸所の中には、後の秀吉の軍師となる「小寺(黒田)官兵衛」も含まれており、この合戦は見事織田方の勝利となります。
「英賀城」合戦の勝利によって、西播磨での戦況も好転したことを受け、信長はその年(1577年天正5年10月)、信貴山城の松永久秀討伐が終わった後に、「羽柴秀吉」を播磨に派遣することを決定します。
秀吉が播磨に着陣した1ヶ月後の11月29日、上月城主「赤松政範(あかまつまさのり)」と合戦になったのが、「第一次上月城の戦い」と言います。
第一次上月城の戦い 場所 アクセス
上月城は現在の兵庫県佐用郡佐用町にある山城です。
秀吉の動き
「松永久秀」討伐が終わり、上洛していた秀吉は10月23日に播磨へ向けて出陣します。
播磨「姫路城」に着陣した秀吉は、まず播磨の国衆から人質を取って万全にした後、但馬南部の朝来郡を攻略し「竹田城」を落とし、異父弟の「小一郎(後の豊臣秀長)」を入れることによって北部の憂いを無くし、次に佐用郡の「福原城」に侵攻します。
すると、11月27日に福原城から出てきた城兵と交戦し、城主「福原則尚」他を討ち取り落城させます。
*秀吉は降ってきた城兵たちも許さず皆殺しにしています。(陰徳太平記)
第一次上月城の戦い 秀吉軍vs毛利軍 布陣 戦力比較
兵力差
【秀吉軍】 | 【宇喜多軍】 | ||
3万 | 1万 |
戦闘目的
【秀吉軍】 | 【宇喜多軍】 | ||
播磨侵攻 | 侵攻阻止 |
主な参戦武将
【秀吉軍】 | 【宇喜多軍】 | ||
織田信忠・筒井順慶・明智光秀・細川藤孝・山中鹿介・佐久間信盛 他 | 赤松政範・宇喜多直家・宇喜多広維 他 |
合戦のゆくえ
「福原城」を陥落させた秀吉は、11月28日に「上月城」の周りを1万5000の軍勢で包囲。
井戸を奪い「水」の供給を遮断し、上月城の援軍に来ていた「宇喜多直家」3000の軍勢と上月城内の兵7000(合わせて1万)と交戦します。
数で勝る秀吉軍は、700程の首級を挙げ、宇喜多勢を備前との国境付近まで追いやります。
再び「上月城」へ攻撃を仕掛ける秀吉に、すでに敗色濃厚となり「水」まで奪われている上月城主「赤松政範」は降伏を申し入れるも秀吉は拒否。
城の周りに「返り猪垣」を三重に築き、完全に逃げられないようにし、来る12月3日に総攻撃を仕掛けます。
総攻撃を仕掛けた秀吉は、向かってくる城兵の首をことごとく切り落とし、さらに、女・子供にも容赦せず、見せしめとして子供は串刺しに、女は磔にして備前・美作・播磨三カ国の境目に並べ置きます。
その数、200人を超え、毛利へのけん制と同時に、まだどちらにも就こうとしない播磨国衆への見せしめだったと言われています。(羽柴秀吉書状)
討死武将
【秀吉軍】 | 【宇喜多軍】 | ||
不明 | 赤松政範 他 |
【秀吉軍】 | 【宇喜多軍】 | ||
数で勝る | 数で劣る |
第一次上月城の戦い その後 まとめ
軍略として、いきなり本拠点は狙わず、回りの支城から落とし、本拠攻撃も「水」の供給を遮断したことから、敵側の戦意を無くさせた事は、秀吉らしい戦略だったようです。
この西播磨に存在する「上月城」は、毛利のいる安芸を狙う上で、軍略上非常に重要な拠点でありこの後も宇喜多と激しい争奪戦が繰り返されることになります。
秀吉はこの合戦後、上月城には尼子家臣である「山中鹿助(幸盛)」を入れ、尼子再興の拠点とするのですが…。。。
戦国の梟雄松永久秀!平蜘蛛とともに死す!信長バトル72【信貴山城攻め】
コメント