六角承禎

信長全合戦

【観音寺城の戦い】足利義昭上洛に添い「織田・徳川・浅井」連合軍で「六角承禎」軍を殲滅せよ!

天下布武! 武を以て、天下を制す! 1568年(永禄11年)9月12日に、「観音寺城」と中山道を挟む小山の「箕作城」を攻略した信長軍は、その日(夜)はそのまま箕作城で野営し、軍はひとときの休息を取り、明日に迎える決戦の時を待っていました。 敵対する「六角承禎(ろっかくしょうてい)」とは、目前の「観音寺城」と対峙する格好となっています。 六角承禎は近江国の守護大で、観音寺城を居城としており、付近には18の支城を構えており南近江をほぼ制圧しています。 特に近江以東から京へ続く近江路「中山道」を牛耳っており、信長が足利義昭を奉じて上洛する際、六角承禎が敵対した為に、信長は力ずくでもこの中山道を通らねばなりませんでした。 この時、信長と六角承禎の間で起こった戦いが「観音寺城の戦い」で、昨夜陥落した「箕作城」の戦いと同じ一連の合戦の事を言います。 実はこの戦い、信長が美濃を治め「天下布武」を掲げた最初の戦いともいわれ、その後信長が足利義昭を奉じ上洛し、京都・畿内を平定し事実上の天下人として名乗りを上げる戦でもありました。 観音寺城の戦い 場所 地図 アクセス 現在の滋賀県近江八幡市安土にある山城です。(現在は国の史跡に指定されています) 観音寺城の戦い 織田信長vs六角承禎 布陣 戦力比較 1568年(永禄11年)9月13日、前夜に観音寺城の目の前にある「箕作城」を多大な損害を出しながらも陥落させることに成功しました。 箕作城を陥落させたのが夜(夜襲)でしたので、信長軍はそのまま箕作城で野営し、六角承禎の「観音寺城攻め」は夜が明けた次の日ということになります。 合戦図 信長は上洛のためには、上洛路である南近江(中山道)を通らねばならず、敵対する「六角氏」を討伐する必要がありました。 当時の「六角氏」は「観音寺城」を主城として、中山道を挟み18もの支城で囲み、南近江一帯を制圧する有力豪族でもありました。 そこへ信長が足利義昭を奉じ上洛しようとしたところを、そうはさせまいと敵対したのが「六角承禎」だったのです。 信長は、「徳川家康」と北近江の「浅井長政」の協力を得て、援軍を加えた5万を超える軍勢で「六角承禎」の討伐に乗り出します。
信長全合戦

【箕作城の戦い】信長、足利義昭を奉じた上洛に暗雲が…!合戦最多の戦死者!六角承禎立ち塞がる!

1500名を超える討死者! 六角承禎強し! 難攻不落の要害「稲葉山城」を落とし美濃を統一させ、北伊勢の有力豪族であった神戸氏・永野氏とも臣従することに成功した信長。 その年(1568年永禄11年)9月、信長は「足利義昭」を奉じ上洛します。 上洛には近江路を通る必要があり、近江には依然として信長に敵対するものがいました。 北近江は信長の妹である「お市」が「浅井長政」に嫁いでいたこともあり同盟関係であったものの、南近江は現将軍(足利義栄)を擁する立場にあり信長とは敵対している「六角承禎義賢(ろっかくしょうていよしかた)・義治(よしはる)」父子が、行く手を遮っていました。 信長は、事前に「六角承禎」に足利義昭の使者を通じ、京都守護職と領地の安堵を与えることを条件に、上洛の安全と協力を願い出ていました。 交渉も最初から低姿勢であり、しかも領地の安堵や京都守護職を与えるなどの好条件にもかかわらず、「六角承禎」はこれを拒否。 信長は力攻めで上洛することを決め、「徳川家康」「浅井長政」の援軍を率いて近江国に侵攻するのでした。 この時、上洛路の途中(南近江)にある「箕作城(みつくりじょう)」で六角承禎と戦となったのが「箕作城戦い」です。 信長の合戦の中で、最多の戦死者を出した戦いと言われています。 箕作城の戦い 場所 地図 現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山頂。(現在は廃城) 六角氏の主城となっていました。 手前が箕作山(箕作城)、正面が繖山(観音寺城)。 山間が信長と足利義昭が通った上洛路(南近江路中山道)です。 箕作城の戦い 織田信長vs六角軍 布陣 戦力比較 1568年(永禄11年)9月7日信長は、足利義昭を奉じて岐阜城を出発、上洛の途につきます。 途中「徳川家康」「浅井長政」の援軍を得て5~6万の軍勢に膨れ上がっていました。 対する六角方は、居城の箕作城と観音寺城を中心に18の支城に籠って抗戦します。 箕作城の戦い 合戦図 信長は、「徳川家康」と「浅井長政」の援軍を率い「佐和山城」から進軍を開始します。 行く道程には、六角方の支城が待ち構えます。 しかし、信長軍はその支城には一切目も触れず、9月12日に観音寺城(繖山)と中山道をはさんで対をなす「箕作城」に進軍します。 そして戦いは午後4時に始まるのです。 兵力差
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