【箕作城の戦い】信長、足利義昭を奉じた上洛に暗雲が…!合戦最多の戦死者!六角承禎立ち塞がる!

信長全合戦

 

1500名を超える討死者!

六角承禎強し!

難攻不落の要害「稲葉山城」を落とし美濃を統一させ、北伊勢の有力豪族であった神戸氏・永野氏とも臣従することに成功した信長。

足利義昭

その年(1568年永禄11年)9月、信長は「足利義昭」を奉じ上洛します。

上洛には近江路を通る必要があり、近江には依然として信長に敵対するものがいました。

北近江は信長のである「お市」「浅井長政」に嫁いでいたこともあり同盟関係であったものの、南近江は現将軍(足利義栄)を擁する立場にあり信長とは敵対している「六角承禎義賢(ろっかくしょうていよしかた)・義治(よしはる)」父子が、行く手を遮っていました。

六角承禎

信長は、事前に「六角承禎」に足利義昭の使者を通じ、京都守護職と領地の安堵を与えることを条件に、上洛の安全と協力を願い出ていました。

交渉も最初から低姿勢であり、しかも領地の安堵や京都守護職を与えるなどの好条件にもかかわらず、「六角承禎」はこれを拒否。

信長は力攻めで上洛することを決め、「徳川家康」「浅井長政」の援軍を率いて近江国に侵攻するのでした。

この時、上洛路の途中(南近江)にある「箕作城(みつくりじょう)」で六角承禎と戦となったのが「箕作城戦い」です。

信長の合戦の中で、最多の戦死者を出した戦いと言われています。

箕作城の戦い 場所 地図

現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山頂。(現在は廃城)

六角氏の主城となっていました。

箕作城址 参考:日本の歴史ガイド

箕作城址2 参考:日本の歴史ガイド

手前が箕作山(箕作城)、正面が繖山(観音寺城)。

山間が信長と足利義昭が通った上洛路(南近江路中山道)です。

手前が箕作城 正面山頂に観音寺城

佐和山城 参考:wik

箕作城の戦い 織田信長vs六角軍 布陣 戦力比較

1568年(永禄11年)9月7日信長は、足利義昭を奉じて岐阜城を出発、上洛の途につきます。

途中「徳川家康」「浅井長政」の援軍を得て5~6万の軍勢に膨れ上がっていました。

対する六角方は、居城の箕作城と観音寺城を中心に18の支城に籠って抗戦します。

箕作城の戦い 合戦図

織田信長覇道の全合戦

信長は、「徳川家康」と「浅井長政」の援軍を率い「佐和山城」から進軍を開始します。

行く道程には、六角方の支城が待ち構えます。

しかし、信長軍はその支城には一切目も触れず、9月12日に観音寺城(繖山)と中山道をはさんで対をなす「箕作城」に進軍します。

そして戦いは午後4時に始まるのです。

 

兵力差

【織田軍】 【六角軍
50000~60000 3000

戦闘目的

【織田軍】 【六角軍】
六角氏討伐 阻止

主な参戦武将

【織田軍】 【六角軍】
織田信長・木下秀吉・丹羽長秀・佐久間信盛 他 吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助 他

箕作城の戦い 信長の作戦 合戦の行方

徳川家康と浅井長政の援軍を借り、5万以上の軍勢に膨れ上がってはいたものの、上洛の際に通る中山道(近江路)の周りは、六角方の支城に挟まれており、いつ攻撃されてもおかしくない状況です。

信長は、この後の上洛を考慮しても出来る限り損害を少なく「六角承禎・義治」を討つ必要があります。

対する六角方も、主城の観音寺城の守城である「箕作城」と「和田山城」に兵を集め、織田軍が必ず通る中山道で挟撃しようとするものでした。

「信長軍」vs「六角軍」

信長が取った作戦はこうでした。

まず、「六角承禎・義治」父子がいるのが「観音寺城」であることを確認した上で、最も近い「箕作城」と「和田山城」を攻略してから、主城の「観音寺城」を攻めるというものでした。

単純に力攻めしては損害が大きくなることから、中山道を通る前に、和田山城に牽制攻撃を仕掛け、その後観音寺城にも本攻撃と見せかけた牽制攻撃を仕掛けます。

その隙に、信長本隊は「箕作城」を総攻撃します。

箕作城は標高300m余りの小山で、城に通じる道が急斜面で1路しかなく回りは大樹に覆われた要害でした。

戦いは午後4時に始まり、東口から「丹羽長秀」隊3000、北口から「木下秀吉」隊2300が攻め込みます。

しかし、守る籠城方も徹底抗戦でなかなか落ちず、信長軍も苦戦を強いられます。

ついに日没となり、戦いは明日へ持ち越しと思いきや、秀吉家臣の「蜂須賀正勝」が夜襲を掛けるといった作戦を立てます。

苦戦する信長 秀吉家臣(蜂須賀正勝)の作戦

その作戦とは、1メートルほどの大松明を数百本用意し、箕作山の麓から中腹まで50箇所ほどに積み重ねておき、頃合いを見て一斉に点火し、火攻めを行うというものでした。

松明が灯されたと同時に、木下秀吉隊、丹羽長秀隊も手に松明をかざして一斉攻撃を仕掛るといった作戦です。

この作戦は、見事的中し夜襲(火攻め)の一斉攻撃に、箕作城兵たちも防ぎきれず200名を超す犠牲者を出して退散し、城は陥落しました。

信長軍も、戦には勝利したものの被害は甚大となります。

城に繋がる1本の城路で、敵兵と抗戦し城内での合戦と合わせ1500名を超す死傷者を出したと言われ、信長の合戦の中で一番多く死傷者が出た戦いとされています。(「日本史」:ルイスフロイス)

討死武将

【信長軍】 【六角軍】
1500超 200超

箕作城の戦い 結果

1568年(永禄11年)9月12日、秀吉家臣「蜂須賀正勝」の策により信長勝利。しかし損害も大。

【信長軍】 【六角軍】
夜襲(火攻め)勝利 夜襲の一斉攻撃に耐え切れず退散

箕作城の戦い まとめ

1568年(永禄11年)9月12日、足利義昭を奉じ上洛途中(南近江)での合戦。

敵対する「六角承禎」軍の主城の一つである「箕作城」の戦いは、夜襲による火攻め一斉攻撃で信長軍が勝利しました。

この戦いは、信長の作戦勝ちといったところですが、信長軍も大きな被害が出る戦となりました。

残るは、本城である六角承禎の「観音寺城」のみ。

六角軍を破り、無事に上洛出来るのでしょうか…。

 

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