尾張統一

信長全合戦

【岩倉城攻略戦】岩倉織田家「信賢」降伏!信長、ついに尾張統一なる!

信長 尾張統一へ! 前年の1558年(永禄元年)7月に浮野の戦いで壊滅的打撃を負わせていた岩倉織田家「織田信賢」に対し、信長は年が明けた半年後の1月に、いよいよ掃討への仕上げとなる総攻撃を仕掛けます。 岩倉城をぐるりと包囲し、城下には火を放ち、籠城する「信賢」軍に対し、「火矢」「鉄炮」を連日のように浴びせ攻撃したのが「岩倉城攻略戦」です。 信長の念願であった「尾張統一」を目前とした戦いです。 岩倉城攻略戦 場所 合戦図 場所は愛知県岩倉市下本町城址122にあり、名古屋駅から電車で約15分位のところにあります。 現在は「岩倉城址」になっています。 半年前の7月「浮野の戦い」で岩倉織田家に壊滅的打撃を与えていた信長は、尾張統一へいよいよ総仕上げとなる最後の合戦を決意します。 1559年永禄2年正月「織田信賢」の居城である岩倉城下に火を放ち裸城にした上、四方を鹿垣(ししがき)で二重三重に囲み完全に包囲し、兵糧攻めに出ます。 2~3か月に及ぶ包囲の中、信賢は必死に持ち堪えていましたが、信長は連日のように絶えず鉄砲や火矢を撃ち続けた結果、信賢はついに降伏し開城することになります。 岩倉城攻略戦 信長軍vs信賢軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長清軍】 【織田信賢軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【織田信賢軍】 尾張統一へ向けた岩倉織田討伐 岩倉城防衛 主な参戦武将 【信長軍】 【織田信賢軍】 織田信長 他 織田信賢・山内盛豊・堀尾泰晴 他 岩倉城攻略戦 合戦 経緯 勝敗 当時の岩倉城は、高さ10m程の高台上に築かれた城で東西約105m、南北約170m程の堅固な平城でした。 信長は無駄な力攻めはせずに、城の周りを完全に包囲し、城への物資の供給を完全にストップさせる「兵糧攻め」に徹します。 信賢側も2~3ヵ月の間、必死に耐えますが、その間も信長の執拗な攻撃(火矢・鉄炮・石)は止まりません。 岩倉城内の兵糧もやがて底をつき、兵たちの士気も限界がきて、やむなく降伏となり開城となりました。 討死武将 【信長軍】 【織田信賢軍】 【不明】 ほぼゼロ 【不明】 餓死者・山内盛豊(山内一豊父) 他 勝敗 【信長軍】 【織田信賢軍】 【勝因】 兵糧攻め 【敗因】
信長全合戦

【浮野の戦い】信長、犬山城「織田信清」と結んで、岩倉城「織田信賢」に大勝利!

内輪の争いは止めて 尾張を統一せよ! 「品野城の戦い」で痛い敗戦を喫した信長ですが、方針を一転し「尾張統一」を目指します。 すでに、清州織田家の「織田信友」を滅ぼし弟の織田信行(信勝)も謀殺して以来、尾張下四郡を手中にしている信長ですが、残る尾張上四郡は岩倉織田家「織田信安」が支配していました。 この頃、尾張以東の今川(義元)の動きが活発となり、もはや駿河国・遠江国・三河国の3国を支配しており、次は尾張への侵攻も時間の問題となっています。 尾張上四郡を平定し「尾張統一」を急ぎたい信長にとって、岩倉家「織田信安」は何としても倒したい相手でした。 そこへ、岩倉織田当主「信安」が長男の「信賢」ではなく次男の「信家」に、家督を継がせようと騒動が起こります。 腹を立てた長男の「信賢」が、父の「信康」を追放するクーデターとなり、この内紛の隙に乗じた信長が、従兄弟の犬山城主「織田信清」と組んで、クーデターで勝利した「信賢」と争ったのが「浮野の戦い」(1558年永禄元年)です。 浮野の戦い 場所 合戦図 場所は愛知県一宮市千秋町浮野海道にあり、岩倉城(織田信賢)から北西に3km程行った場所が浮野の戦い合戦場です。 現在は「合戦場碑」が建立されています。 岩倉織田「織田信安」が次男に家督を継がせようと、これに反した長男の「信賢」は、父信安と次男の信家を追放します。 この内紛の隙に乗じた信長は、従兄弟の犬山城主「織田信清」と組んで、岩倉織田家を倒そうと画策します。 当時の「織田信清」は居城である犬山城(織田信清)が尾張上郡に位置するため、当時は岩倉「織田信安」に属していました。 通常であれば「信清」は岩倉方へ組するのが当然ですが、しかし「信清」は信長の姉(犬山殿)を娶っていたのです。 迷う「信清」に信長は、勝利の後には尾張上を任せるといった密約も交わされていたとされ、「信清」は主家(岩倉織田家)に背き信長に組することにしたのです。 そして1558年(永禄元年)7月20日、浮野の地で「浮野の戦い」は始まるのです。 浮野の戦い 信長・信清軍vs織田信賢軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長・信清軍】 【織田信賢軍】 「信長2000」 「信清1000」 信賢3000 戦闘目的 【信長・信清軍】 【織田信賢軍】 岩倉織田家討伐 上尾張防衛
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