内輪の争いは止めて
尾張を統一せよ!
「品野城の戦い」で痛い敗戦を喫した信長ですが、方針を一転し「尾張統一」を目指します。
すでに、清州織田家の「織田信友」を滅ぼし弟の織田信行(信勝)も謀殺して以来、尾張下四郡を手中にしている信長ですが、残る尾張上四郡は岩倉織田家「織田信安」が支配していました。
この頃、尾張以東の今川(義元)の動きが活発となり、もはや駿河国・遠江国・三河国の3国を支配しており、次は尾張への侵攻も時間の問題となっています。
尾張上四郡を平定し「尾張統一」を急ぎたい信長にとって、岩倉家「織田信安」は何としても倒したい相手でした。
そこへ、岩倉織田当主「信安」が長男の「信賢」ではなく次男の「信家」に、家督を継がせようと騒動が起こります。
腹を立てた長男の「信賢」が、父の「信康」を追放するクーデターとなり、この内紛の隙に乗じた信長が、従兄弟の犬山城主「織田信清」と組んで、クーデターで勝利した「信賢」と争ったのが「浮野の戦い」(1558年永禄元年)です。
浮野の戦い 場所 合戦図
場所は愛知県一宮市千秋町浮野海道にあり、岩倉城(織田信賢)から北西に3km程行った場所が浮野の戦い合戦場です。
現在は「合戦場碑」が建立されています。
岩倉織田「織田信安」が次男に家督を継がせようと、これに反した長男の「信賢」は、父信安と次男の信家を追放します。
この内紛の隙に乗じた信長は、従兄弟の犬山城主「織田信清」と組んで、岩倉織田家を倒そうと画策します。
当時の「織田信清」は居城である犬山城(織田信清)が尾張上郡に位置するため、当時は岩倉「織田信安」に属していました。
通常であれば「信清」は岩倉方へ組するのが当然ですが、しかし「信清」は信長の姉(犬山殿)を娶っていたのです。
迷う「信清」に信長は、勝利の後には尾張上を任せるといった密約も交わされていたとされ、「信清」は主家(岩倉織田家)に背き信長に組することにしたのです。
そして1558年(永禄元年)7月20日、浮野の地で「浮野の戦い」は始まるのです。
浮野の戦い 信長・信清軍vs織田信賢軍 布陣 戦力比較
兵力差
【信長・信清軍】 | 【織田信賢軍】 | ||
「信長2000」
「信清1000」 |
信賢3000 |
戦闘目的
【信長・信清軍】 | 【織田信賢軍】 | ||
岩倉織田家討伐 | 上尾張防衛 |
主な参戦武将
【信長・信清軍】 | 【織田信賢軍】 | ||
織田信長・織田信清・橋本一巴・佐脇良之 他 | 織田信賢・林弥七郎・山内盛豊・堀尾泰晴 他 |
浮野の戦い 合戦 経緯 勝敗
戦い当日、信長は2000の軍勢を率い、対する信賢軍は3000の兵で迎え撃ちます。
やや数で劣る信長軍は、序盤は信賢軍に苦戦するものの、援軍に来た信清軍1000が加わり数では互角となり、信賢軍を押し戻します。
両軍激戦となり4時間を超える激戦の末、「信長・信清軍」が優勢となり、信賢軍を岩倉城際まで追い詰めます。
ここで勝負ありと、援軍を引上げさせようとした信清に対し、背後から「信賢」が反撃に転じ、さらなる混戦が続きます。
これを見た信長軍は一気に総攻撃に出て、1250名を超える首級を上げ大勝利となり、信賢軍は壊滅的打撃を追う格好となりました。
討死武将
【信長・信清軍】 | 【織田信賢軍】 | ||
【人数不明】
橋本一巴 他 |
【1250名超】
林弥七郎 他 |
勝敗
【信長軍】 | 【松平家次軍】 | ||
【勝因】 信長・信清連合軍の連携が良かった |
【敗因】 3000の統制取れず |
浮野の戦い まとめ
いずれは侵攻してくるであろう今川(義元)軍の脅威に対抗するためにも「尾張統一」を急いでいた信長。
尾張上四郡の岩倉織田家「織田信賢」との戦いは、1250以上の首級を上げた「信長」の大勝利で終わりました。
合戦の最中、このような光景がありました。
岩倉方の弓の名手「林弥七郎」と、旧知の友であった信長方の鉄砲名手「橋本一把」が対峙し、一巴が「助けてはやれないぞ」と言ったところ、林与七郎も「分かっている」と応え、お互いに弓と鉄砲を放つと、お互いに命中し相打ちとなります。
倒れた林弥七郎の首を上げようと、信長の小姓「佐脇良之」(前田利家の弟)は、林の太刀で左手を切り落とされながらもついに林の首を上げたといいます。(信長公記)
この戦いに敗れた岩倉織田家「織田信賢」は衰退し、翌年の「岩倉城攻略戦」でついに滅亡することになります。
そして信長は、念願であった「尾張統一」を果たすことになるのです。
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