信長全合戦

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【戦国時代の勢力図】織田信長から秀吉・家康まで年代別の勢力相関図!

戦国時代の勢力相関図! 信長から秀吉・家康までの戦国の勢力変遷! 今からおよそ400年から500年ほど前(15世紀末から16世紀末)、日本では多くの英雄や豪傑たちが各地に勢力を張り、互いに対立し「覇」を競い合う群雄割拠の世の中でした。 「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」の3人も、その中の一人でした。 「合戦」が日本各地で起こり、多くの戦国武将たちは権力争い・領国侵攻が日々のように行われ、誰もが天下を手中にと狙う中、この信長、秀吉、家康の3人は戦国の世の「覇者」となっていきます。 いったいどのようにして「天下の覇者」となっていったのか…。 「信長」「秀吉」「家康」が戦った時代を通じ、天下統一への勢力変遷を見てまいりましょう。 信長・秀吉・家康の戦国時代の勢力図と変遷 では、実際に天下統一までの勢力がどのように変遷していったのか、時系列でみてまいりましょう。 【1534年信長誕生!】 織田信長(赤の勢力)が誕生した当時(1534年)は、まさに群雄割拠の時代で、名だたる家柄の武将(上杉・北条・武田・今川・松平・細川)達の勢力もほとんど同じで均衡しています。 まわりの有力大名の勢力からすれば、当時の「織田家」は地方の小領主(弱小大名)にすぎません。 (この時は、まだ「秀吉」も「家康」も誕生していませんが、後の1537年に秀吉、1543年に家康が誕生します) 【1560年信長(27歳)が桶狭間で今川義元を討った頃の勢力図】 1560年、織田信長(赤)が今川義元(黄)を討った当時は、織田家の勢力はまだ小さな小領主です。 しかしこの戦い(桶狭間の戦い)で一躍、天下争いのレースに躍り出た格好になりました。 当時の勢力では、越後の長尾(上杉謙信)、関州の北条、甲斐の武田、中国の毛利の勢力が台頭を現わしてきたようです。 「桶狭間の戦い(1560年)」当時の秀吉は織田側にて足軽、家康は今川側にて先鋒隊を務めていました。 【1573年信長が足利義昭を追放し室町幕府崩壊】 1573年、「槇島城の戦い」で、将軍足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡します。 この頃の織田領は、越前・近江・近畿を中心とした勢力(赤い部分)ですが、周りをぐるりと「反信長派」に囲まれ、信長が最も「戦い」に忙しい時期でもありました。
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「織田信長」について!全合戦・年表一覧!

戦国史上、最大の天才といわれ革命家でもあった「織田信長」。 数多い戦国武将の中でも人気ナンバーワンであり、その魅力は未だに語り継がれ、現代の人々の心をひきつけます。 今から450年ほど前のこと、信長が生きた安土桃山時代(1573~1603)は群雄割拠の戦国時代。 信長が戦った「全合戦」をご案内してまいりましょう。 織田信長 城 生誕地 信長は尾張国古渡城・織田信秀の嫡男(三男)として1534年誕生しました。 母は正室「土田御前」、幼名は「吉法師」と名乗り、信長が乳飲み子の時から何人もの乳母の乳首を食いちぎったとされ、すでにこの頃から「うつけ」ぶりが見られます。 生誕地は諸説あり、「那古野城(現名古屋城)」もしくは「勝幡城」と言われています。 当時の那古野城は現在の名古屋城(二の丸)に当たり、勝幡城は名古屋の西方(稲沢市平和町)にあり、城郭などは存在しておらず勝幡城址として残っています。 信長が生まれる2年前の1532年、父信秀が今川氏豊(今川家)の那古野城を攻め落とし、2年後の1534年に信長が生まれたので生誕地は「那古野城」とされていたのが古くからの定説でした。 しかし公家の山科言継(ときつぐ)の日記「言継卿記」に、1533年7月に「勝幡城」にいる織田信秀に招待され、その時に那古野城の竹王丸(今川氏豊)と面会した、という記述が見つかり、長年定説とされてきた生誕地=那古野城という説が崩れ、信長は翌年の1534年5月に生まれたということから「勝幡城」説が現在では有力となっています。(photo:国立国会図書館) 織田信長 家紋 織田信長の家紋といえば有名なのがこの「木瓜紋」。 由来は胡瓜の断面や花の形から案出されたという説があり、形が卵の入った鳥の巣を上から見た形に似ていることから、今後さらに卵が増え子孫に繋がるようにと「子孫繁栄」の意味で使われることが多いといわれています。 木瓜紋は外葉の数により、三瓜、四瓜、五瓜、六瓜と数種あり、織田家は五瓜に当たります。 もっこうと 呼ばれてきたのは、多くの神社の御簾の帽額(もこう)に使われた文様だからといいます。 もともと公家が使っていた有職文様の一つでしたが、御簾や牛車に使われるようになり、しだいに家紋としても使われるようになりました。 織田信長 肖像画
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