豊臣秀吉

信長全合戦

【長篠の戦い】とは?長篠・設楽原の場所で鉄砲三段撃ちで大勝利!「織田徳川軍vs武田騎馬軍」の攻防! 

織田・徳川連合軍vs武田勝頼 鉄炮・馬房柵vs武田騎馬軍 織田信長最大の強敵「武田軍」。 武田信玄はもはや2年前に亡くなっているものの、信長にとって「武田軍」の強さは脅威です! 織田・徳川にとって三河以東の憂いは未だ無くなっていません。 その要城である「長篠城」は、徳川側の「奥平貞昌」がわずか500の兵で守られていました。 そこへ、「武田軍(武田勝頼)」が1575年(天正3年)5月1日に、1万5000の兵で長篠城奪還に取り掛かります。 「武田家」存亡を大きく揺るがせた「長篠の戦い」。 早速紐解いてまいりましょう。 長篠の戦い 場所 地図 アクセス 長篠の戦い合戦場は、現在の愛知県新城市八束穂辺り一帯となります。 アクセスは、車で新東名「新城IC」降りて約2kmほどです。 長篠の戦い 織田・徳川vs武田軍 布陣 戦力比較 織田・徳川軍 武田軍 兵力差 【織田。徳川軍】 【武田軍】 3万8000 1万5000 戦闘目的 【織田・徳川軍】 【武田軍】 武田軍侵攻阻止 尾張・三河侵攻 主な参戦武将 【織田・徳川軍】 【武田軍】 織田信長・織田信忠・河尻秀隆・柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・佐久間信盛・滝川一益・水野信元・金森長親・前田利家 徳川家康・松平信康・石川数正。本田忠勝・榊原康政・鳥居元忠・大久保忠世・酒井忠次 他 武田勝頼・武田信兼・小山田信茂・穴山梅雪・馬場信春・山形昌景・内藤昌豊・原昌胤・真田信綱・真田昌輝・山本勘蔵 他 討死武将 【織田軍】 【今川軍】 鳥居強右衛門・松平伊忠・佐脇刀弥太夫 山形昌景・馬場信春・内藤昌豊・原昌胤・真田信綱・真田昌輝・土屋昌次・山本勘蔵 長篠の戦い 布陣 「鉄砲」の使用が大きな勝敗を分けたと言われる「長篠の戦い」。 上記の図は「長篠合戦図屏風」です。 真ん中の細い川(連吾川)を挟んで、「織田徳川軍」と「武田軍」が対峙しているのが分かります。 右側の川が二俣に分かれている上部が「長篠城」です。(連吾川の左側には馬防柵があります。復元有) 5月1日に「武田軍」の長篠城侵攻が開始され、5月中旬には「長篠城」は陥落寸前に陥ります。 長篠の戦い 落城寸前!「鳥居強右衛門」が援軍を求めに…
秀吉全合戦

「豊臣秀吉」について!全合戦・年表一覧!

農民の倅として生まれながら、溢れる才能と行動力で、天下人まで駆け上がった「豊臣秀吉」。 「人たらし」と言われ、厚い人情と器用さで名立たる武将たちを味方に引き入れたその手腕は、まさにあっぱれとしか言いようがありません。 現代社会の一介のサラリーマンが、国の頂点に立った出世街道は、まさにサクセスストーリーとして私たちの心を魅了します。 織田信長の後を追い、駆けずり回ったその人生、そして頂点に立った秀吉の「人生(全合戦)」を紐解いてまいります。 豊臣秀吉 年 生誕地 秀吉の出生は、当時が農民(下層階級)の為、はっきりとした記録が残されていません。 通説とされる(竹中重門「豊鑑」)では、1537年(天文6年)尾張国中村郷(現在の名古屋市中村区)に生まれたとされています。 誕生日もいくつかの説があり、1月1日(絵本太閤記)と2月6日(天正記)されていますが、家臣の伊藤盛秀の願文の記載から2月6日が有力とされています。 父(木下弥右衛門)が早く死に、母(なか)が竹阿弥と再婚し、弟の秀長(後の豊臣秀長)と朝日(後に家康に嫁ぐ)が生まます。 幼名を日輪の子「日吉丸」となっていますが、これも後の絵本太閤記の創作といわれ、実際にはよく分かっていません。 現在の生誕地は、「中村公園」として名古屋市民の憩いの場として愛されています。 【中村公園アクセス】 豊臣秀吉 名前の変遷 戦国時代では、武将の名前がよく変わることがあります。 幼少時代、元服後、または出世する毎に名前が変わるのが通例となっていました。 秀吉もその1人で、幼名は「日吉(丸)」と言われています。しかし、これは秀吉が天下を取った後に作られた「創作(名)」といわれています。 出自が百姓ということもあり、正確な記録がないというのが事実ですが、最初に仕官した今川家松下嘉兵衛の時代(1551年14歳時)では「木下藤吉郎」と名乗っていました。 その後、1554年(17歳時)に「織田信長」に仕え、手柄を上げ「木下藤吉郎秀吉」と名乗るようになります。 秀吉の名前が、歴史にはじめて登場したのは永禄8年(1565年28歳時)11月2日付けの坪内利定宛ての知行安堵状であり、その際に「木下藤吉郎秀吉」と記載があります。
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