【三木合戦】謀反人「別所長治」ついに降伏か!三木の干殺し!
謀反人「別所長治」! 竹中半兵衛秘策「三木の干殺し」でついに降伏か…⁉ 【三木合戦】 1578年(天正6年)2月に離反した「別所長治(べっしょながはる)」は、自らの居城である「播磨三木城」に約7500の兵たちと籠城して、はや早2年。 「織田信忠」による攻撃もあったものの膠着状態となっています。 この、1578年(天正6年)3月29日から1580年(天正8年)1月17日にかけて行われた、織田軍と別所長治の合戦を「三木合戦」と言います。 織田信長より、播磨攻略を命じられていた「羽柴秀吉」との合戦となり、別所長治が「播磨三木城」に篭城しました。 三木合戦 場所 アクセス 三木城(みきじょう)は、現在の兵庫県三木市上ノ丸町にあった平山城で、別名「釜山城」や「別所城」とも呼ばれていまする。 小寺氏の「御着城」、三木氏の「英賀城」と並び「播磨三大城」と称されました。 「三木城(黒)」 三木合戦のいきさつ そもそも播磨国は、守護「赤松氏」の領国でしたが、戦国の時代になると下剋上もあったのか、諸所の勢力が独立状態となって数郡ごとに分かれていました。 別所氏もその1つで、東播磨一帯に影響力を持っていました。 回りでは、西の「毛利」とその家臣である「宇喜多直家」が存在し、畿内を制しつつある「織田信長」が勢力を広げており、播磨国内の諸勢力は「毛利」「織田」の両方と友好関係を結んでいました。 播磨国内では、1577年(天正5年)5月に、中播磨の御着城主「小寺政職」が、毛利氏と争って旗幟を織田方へと鮮明にするなど、多くの勢力が織田家寄りとなります。 これを好機に、信長は安芸(毛利)への侵攻の前線基地となる、播磨攻略へと動き出します。 同年10月、羽柴秀吉を播磨攻略司令官として播磨入りさせ、西播磨の「上月城」や「福原城」などを攻略し、守備には尼子再興を図る「尼子勝久」「山中鹿助(幸盛)」を入れ、一旦は播磨の全域をほぼ制圧しました。 しかし、東播磨を領している「別所」と「織田」の関係は、織田勢による「上月城」の虐殺や、加古川城で行われた「羽柴秀吉」と「別所吉親」の会談(加古川評定)で生じた不和などをきっかけに悪化します。 1578年(天正6年)に秀吉が、中国地方攻略のため再び播磨入りするも、同年2月、別所吉親の甥である「別所長治」が離反。