豊臣秀吉

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【三木合戦】謀反人「別所長治」ついに降伏か!三木の干殺し!

謀反人「別所長治」! 竹中半兵衛秘策「三木の干殺し」でついに降伏か…⁉ 【三木合戦】 1578年(天正6年)2月に離反した「別所長治(べっしょながはる)」は、自らの居城である「播磨三木城」に約7500の兵たちと籠城して、はや早2年。 「織田信忠」による攻撃もあったものの膠着状態となっています。 この、1578年(天正6年)3月29日から1580年(天正8年)1月17日にかけて行われた、織田軍と別所長治の合戦を「三木合戦」と言います。 織田信長より、播磨攻略を命じられていた「羽柴秀吉」との合戦となり、別所長治が「播磨三木城」に篭城しました。 三木合戦 場所 アクセス 三木城(みきじょう)は、現在の兵庫県三木市上ノ丸町にあった平山城で、別名「釜山城」や「別所城」とも呼ばれていまする。 小寺氏の「御着城」、三木氏の「英賀城」と並び「播磨三大城」と称されました。 「三木城(黒)」 三木合戦のいきさつ そもそも播磨国は、守護「赤松氏」の領国でしたが、戦国の時代になると下剋上もあったのか、諸所の勢力が独立状態となって数郡ごとに分かれていました。 別所氏もその1つで、東播磨一帯に影響力を持っていました。 回りでは、西の「毛利」とその家臣である「宇喜多直家」が存在し、畿内を制しつつある「織田信長」が勢力を広げており、播磨国内の諸勢力は「毛利」「織田」の両方と友好関係を結んでいました。 播磨国内では、1577年(天正5年)5月に、中播磨の御着城主「小寺政職」が、毛利氏と争って旗幟を織田方へと鮮明にするなど、多くの勢力が織田家寄りとなります。 これを好機に、信長は安芸(毛利)への侵攻の前線基地となる、播磨攻略へと動き出します。 同年10月、羽柴秀吉を播磨攻略司令官として播磨入りさせ、西播磨の「上月城」や「福原城」などを攻略し、守備には尼子再興を図る「尼子勝久」「山中鹿助(幸盛)」を入れ、一旦は播磨の全域をほぼ制圧しました。 しかし、東播磨を領している「別所」と「織田」の関係は、織田勢による「上月城」の虐殺や、加古川城で行われた「羽柴秀吉」と「別所吉親」の会談(加古川評定)で生じた不和などをきっかけに悪化します。 1578年(天正6年)に秀吉が、中国地方攻略のため再び播磨入りするも、同年2月、別所吉親の甥である「別所長治」が離反。
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【有岡城の戦い】本願寺攻略を前に「荒木村重」が謀反! 黒田官兵衛を幽閉!

本願寺攻略を前に「荒木村重」が謀反! 黒田官兵衛が幽閉! 秀吉、官兵衛を救え! 【有岡城の戦い】 秀吉の播磨侵攻が順調に行っていた1578年(天正6年)2月、突然、三木城の「別所長治」が離反し毛利方へ与します。 それにより同年7月、毛利より奪い取っていた「上月城」が毛利軍の反撃に合い包囲され、城主「尼子勝久」から援軍を求められます。 当時、播磨攻略の大将であった秀吉は、謀反を起こした「別所長治」討伐のため、援軍を「上月城」に出すことができず、「上月城」は毛利方へ落ちてしまいます。 その矢先、秀吉と「別所長治」討伐に参戦していた有岡城の「荒木村重(あらきむらしげ)」が謀反を起こします。 謀反を起こした理由は諸説ありますが(後述)、謀反を起こした以上、信長軍と合戦となっていったのが「有岡城の戦い」と言います。 有岡城の戦い 場所 アクセス 有岡城(ありおかじょう)は、現在の兵庫県伊丹市にある城で、別名伊丹城(いたみじょう)とも言われています。 現在は国の史跡に指定されています。 「有岡城(黒)」 なぜ荒木村重は謀反を起こしたのか… 「上月城」を毛利方より奪い、この先、秀吉の播磨攻略も順調に行くかと思いきや、三木城「別所長治」に続く、有馬城の「荒木村重」も信長に謀反を起こしました。 その理由は諸説ありますが、詳細は本人(村重)しか分からないと言ったところですが、いくらかの諸説をご案内します。 「荒木村重」謀反の原因は、信長の部下に対する苛酷な態度にあったのではないか(田中義成:国史学者)、としています。 村重はもともと池田城主「池田勝正」の家臣でしたが、下剋上で主家を乗っ取り、信長に仕えて37万石の大名になっていました。 「陰徳記」での、村重が兵糧を密かに本願寺へ搬入したとの噂であったり、「武功夜話」では、神吉城の攻城戦で内通者であった神吉貞光は、落城後秀吉に許されるものの、直後に別所長治のもとに走り、秀吉と対することになる事から、貞光と村重は通じており、村重も疑われることになったといいます。
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【第二次上月城の戦い】山中鹿助奮闘!尼子再興なるか⁉

尼子再興の夢なるか…⁉ 毛利大軍の前に、山中鹿助、上月城を死守! 【第二次上月城の戦い】 【いきさつ】 昨年1577年(天正5年)12月、秀吉の播磨侵攻戦による「第一次上月城の戦い」で、「福原城」「上月城」を落城させたものの、年が明けた2月、三木城の「別所長治」が突然、毛利方へ寝返ります。 すると、未だ織田方か毛利方か、立場を明確にしていない播磨諸豪族衆が、別所長治の毛利方へ離反するとともにこぞってこれに同意。 秀吉の播磨侵攻に雲行きが怪しくなってまいります。 この背景には、「上杉謙信」の上洛という意図もあったと考えられ、この時点における播磨諸衆は試案のし所だったに違いありません。 いづれにせよ、三木城の別所長治が離反したとなれば、播磨における最重要拠点が、上月城から三木城へと移り、上月城の戦略的価値が低くなってしまったと言うほかありません。 織田方において戦略的価値が低くなったとはいえ、毛利側にとっての「上月城」は、播磨安芸間の交通の要所でもあり、宇喜多直家の要請もあり、「上月城」奪還の戦略を取ります。 別所長治が離反してから約2か月後の4月18日、「上月城」が毛利の3万の大軍で包囲されます。 「上月城」の包囲に、秀吉軍が救援に参陣し合戦となったのが、「第二次上月城の戦い」と言います。 第二次上月城の戦い 場所 アクセス 上月城(こうづきじょう)は、兵庫県佐用郡佐用町にある山城です。 「第二次上月城の戦い 上月城(黒)」 第二次上月城の戦い 信長と秀吉の動き 毛利軍に包囲された「上月城」の救援に向かう秀吉軍は、高倉山へと進出しますが、毛利の大軍3万の前に手が出せません。 こうしているうちにも、いつ、三木城の「別所長治」が後ろから責めてきてもおかしくありません。 秀吉は考えあぐねます。 信長はすぐに、秀吉への援軍を嫡男「信忠」を出陣させます。 しかしその援軍は、「上月城」ではなく、謀反を起こした三木城の「別所長治」討伐へ向けての援軍でした。 この命令に秀吉は、「上月城」を見捨てるしかありません。 守将となっている「尼子勝久」「山中鹿助」を前に、秀吉は城を脱出するようにと説得しますが、尼子再興の夢を秀吉に託し、協力し戦っている両者は徹底抗戦を選びます。
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【信貴山城の戦い】戦国の梟雄「松永久秀」!名物茶器「平蜘蛛」とともに散る!

戦国の梟雄「松永久秀」!平蜘蛛とともに散る! 織田信長vs松永久秀 【信貴山城戦い】 【いきさつ】 1577年(天正5年)8月17日、石山本願寺を包囲していた「松永久秀(まつながひさひで)」が、突如、天王寺砦を焼き払う暴挙に出て、居城の「信貴山城」で信長に反旗を翻します。 理由は、「石山本願寺」「毛利輝元」「上杉謙信」の「反信長同盟」成立に示し合わせてのものとされています。 信長は松永久秀に対し、松井夕閑を使者に理由を聞くものの返答せず、人質とされていた2人の孫は、引き回しの上斬首されます。 9月27日に、信長嫡男の「織田信忠」が久秀討伐4万の軍勢で出陣し、10月5日に松永久秀のいる「信貴山城」に攻め込みます。 そして合戦となったのが「信貴山城の戦い」と言います。 信貴山城の戦い 場所 地図 アクセス 信貴山城は、現在の奈良県生駒郡平群町信貴山(標高433m)山上に築かれた山城です。 「信貴山城の戦い」 松永久秀謀反までの動き 松永久秀は元々信貴山城回りである大和国の支配を任されていました。 ところが、室町幕府15代将軍である「足利義昭」が「信長」と対立し、「三好義継」と共に「信長包囲網」に加わり摂津・河内も支配するも、結局この体制は信長に抑えられ足利義昭は追放、三好義継は自刃に追い込まれました。 当の松永久秀は許されますが、自国である大和国の支配権を「原田直政」に奪われてしまいます。 その原田直政も、1576年(天正4年)5月3日、石山合戦で敗退し討ち取られますが、信長は久秀の宿敵であった「筒井順慶(つついじゅんけい)」を大和国守護に据えました。 信長としてみれば、久秀は一度裏切った事のある、信用のおけない人物であり、筒井順慶の守護は当然のことであったと考えられますが、久秀にとっては納得いかない措置であり、謀反を起こす要因の一つと考えられています。 また、順慶はかつての久秀の支配の重要な拠点とした「多聞山城」を破却するなど、久秀の勢力の削減する行動に出たことも、久秀の政治的な危機感を強め、謀反へ向かわせる一因となったと言われています。 さまざまな要因が重なり合い、そして翌年の1577年(天正5年)8月17日、石山本願寺を包囲していた「天王寺砦」を焼き払い、信貴山城へ立てこもる行動に出ます。
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【小谷城の戦い】浅井長政・お市の方の運命は…⁉信長vs長政いよいよ決戦の時!

「織田信長」vs「浅井長政」最後の決戦! 1573年(天正元年)8月20日に、越前「朝倉義景」が自害して500年もの間栄華を誇った「朝倉氏」が滅亡しました。(一乗谷城の戦い) その後信長は、間髪入れずに江北に戻り「浅井長政」との最終決戦に臨みます。 8月26日から9月1日に渡り、信長の妹「お市の方」の夫である「浅井長政」との最終決戦となったのが、「小谷城の戦い」です。 小谷城の戦い 場所 地図 アクセス 現在の滋賀県長浜市湖北町伊部にあります。 当時は堅固な山城として有名でしたが、織田信長に攻められ落城した後に、拠点は長浜城に移されたために廃城となっています。 現在は土塁・曲輪などのほか石垣なども遺構として残っており国の史跡に指定されています。 小谷城の戦い 信長の動き 朝倉義景自刃から決戦前日まで 1573年(天正元年)8月20日に、「朝倉義景」が自刃し朝倉氏を滅亡させた信長は、休む間もなく一乗谷から一気に「長政」のいる小谷城(江北)へ向かいます。 26日には「小谷城」の目の前にある「虎御前山」の本陣に帰還します。 第5次とも第6次とも言われる、「浅井長政」(小谷城)への攻撃が、ついに最終決戦となりました。 虎御前山に着陣した信長は、全軍に総攻撃を命じます。 小谷城の戦い 織田軍vs浅井軍 布陣 戦力比較 信長の掛け声とともに、信長全軍は小谷城へと進軍します。 難攻不落を極めた小谷城は、自然の要塞でもありました。 兵力差 【織田軍】 【浅井軍】 3万 5000 戦闘目的 【織田軍】 【浅井軍】 浅井長政討伐 討伐阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【浅井軍】 織田信長・羽柴秀吉 他 浅井長政・浅井久政・浅井政元・赤尾清綱 他 27日に羽柴秀吉隊3000の兵が、本丸(長政)と小丸(長政父「久政」)にとの間にある京極丸を落とし、父子の分断に成功します。 そして秀吉隊は、久政のいる小丸への攻撃を開始し、久政を追い詰め自刃します。 父「久政」と分断され、次第に本丸への攻撃も激しくなる中、長政は嫡男の「万福丸」と、正室であり信長妹である「お市」とその娘*3人(茶々・初・江)を秀吉隊に引き渡します。
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【一乗谷城の戦い】朝倉義景切腹!一乗谷とともに朝倉家滅亡!

越前「朝倉家」滅亡! 1573年(天正元年)8月14日に、3000人以上の討死者を出した「刀根坂の戦い」から勝利した信長は、4日後の18日、刀根坂から撤退していた「朝倉義景」を追い、一乗谷の龍門寺に陣を置き、ついに義景を追い詰めます。 1571年の「比叡山焼討ち」以降、幾度となく信長の挑発に乗ってこなかった「朝倉義景」でしたが、この時ばかりは信長に追い詰められます。 1573年(天正元年)8月18日、一乗谷で起こった「織田信長」と「朝倉義景」の間で起こった戦いを「一乗谷城の戦い」と言います。 どのような合戦となったのか…、さっそく紐解いてまいりましょう。 一乗谷城の戦い 場所 地図 アクセス 現在の福井県大野市泉町にあります。 現在では、「朝倉義景墓所」公園となっており、市民の憩いの場となっています。 朝倉義景の刀根坂の戦いでの敗戦から撤退まで つい4日前の「刀根坂の戦い」で、織田軍3万の軍勢に対し朝倉軍は2万。 義景は兵数で勝ち目がないことを知り、「撤退」を決断したまでは良かったが、それを見越していた信長は、朝倉軍が撤退するいなや、自ら本隊を率い義景の背後を襲います。 義景は「殿」(しんがり)に重心を据え、自ら疋田城に向け撤退を開始しますが、「刀根坂」で信長軍の追討を受け3000人を超える討死者を出します。 その中には、北庄城主「朝倉景行」や「朝倉道景」といった一門衆を含め、「山崎吉家」、「斎藤龍興」、「河合吉統」など朝倉家の軍事中核を成していた名将が数多く討死しました。 重臣を失った義景は、少数の供回りのみで一乗谷へ帰還するも、朝倉家の直属軍と部将はほぼ壊滅状態となっていました。 この好機を逃す信長ではありません。 15日16日にかけて、信長は兵たちを休め、17日に大軍を整えついに義景のいる越前入りを果たします。 一乗谷城の戦い 織田軍vs朝倉軍 布陣 戦力比較 18日、信長軍は「柴田勝家」を先陣に一乗谷へ攻め込みます。 100年以上、往時は1万人を超える人口にて栄華を誇った一乗谷は、織田軍の手により焼討ちされて灰燼に帰してしまいます。 兵力差 【織田軍】 【朝倉軍】 3万 500 戦闘目的 【織田軍】 【朝倉軍】 朝倉討伐 討伐阻止 主な参戦武将 【織田軍】 【朝倉軍】
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【比叡山延暦寺焼き討ち】鬼信長!女、子供、すべて焼き殺せ!!

延暦寺の腐敗に業を煮やしていた信長! 昨日(1571年9月11日)、近江金森城を攻め落とした信長は、瀬田川(琵琶湖南岸)を渡り、坂本(大津)の手前の三井寺付近へ着陣します。 家臣たちは、そのまま「京」へ向かうものと思っていましたが、信長は「志賀の陣」以来の憂いであった比叡山延暦寺への攻撃命令を出します。 「比叡山延暦寺焼き討ち」とは、1571年(元亀2年)9月12日に比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市比叡山延暦寺)を焼討ちにした戦を言います。 老若男女一切関係なく、上人や高僧、女性、子供に至るまで3000人以上が斬殺されたといいます。 比叡山延暦寺焼き討ち 焼討ちの経緯 「延暦寺」は788年(延暦7年)に「最澄」が開創した天台宗の総本山で、国家の鎮護の寺として建立され、当時の年号でもあった「延暦」を寺の正称として賜りました。 鎌倉時代以降は、「親鸞」「法然」「一遍」「栄西」「道元」「日蓮」の名だたる高僧たちが修行し、日本仏教・宗教の開祖に先立つ存在となり「日本仏教の母山」と呼ばれています。 1571年当時の法主は、正親町天皇の弟「覚恕(かくじょ)」で、朝廷との結びつきも強く、それゆえに多大な寺領と僧兵を持ち合わせており権力も強大な寺院となっていました。 比叡山延暦寺 場所 地図 アクセス 延暦寺は滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院です。 比叡山延暦寺と信長の対立 焼討ちが起こるまで… 信長が足利義昭を伴い上洛(1568年)した後、畿内平定の際に奪った「寺領」を家臣に与えていたことを、もともとは延暦寺の寺領であると主張し、返領するようにと訴えていました。 延暦寺は朝廷とのつながりが深かったため、朝廷を動かし、寺領回復を求める綸旨を下したものの、信長はこれに従いませんでした。 そもそも、一介の寺院が朝廷を動かし「政(まつりごと)」に口を挟むような対応をひどく嫌っていた信長ですが、延暦寺のその後の対応(「志賀の陣」逃げ込んだ浅井・朝倉に味方しなければ寺領回復に応じると伝えたにも関わらず、これを無視し、その上浅井・朝倉を匿(かくま)い、信長に対抗する姿勢を見せた)に怒りを覚えていました。 信長の延暦寺に対する怒りはこれだけではありません。
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【金ケ崎の退き口】信長大ピンチ!「絶体絶命」!金ケ崎の戦い!

浅井長政(義弟)が裏切った‼ 信長、挟撃され絶体絶命…! 織田信長戦史の中で、信長自身が最も追い詰められ絶体絶命となった撤退戦。 戦国でも有名な撤退戦で、金ケ崎の退き口(かながさきののきくち)、金ケ崎崩れ(かながさきくずれ)、金ケ崎の戦い(かながさきのたたかい)などと言われています。 相手は越前朝倉家10代当主「朝倉義景(あさくらよしかげ)」。 4月20日から越前侵攻を開始し、2日前の26日に朝倉支城である「金ケ崎城」を陥落させ、朝倉義景の一乗谷に向かう際に、妹の「お市」が嫁いでいる「浅井長政(あざいながまさ)」の裏切りにより、前後を挟撃され窮地に立たされます。 前方には「朝倉義景」、後方には「浅井長政」、まさに最大の窮地へと追い詰められた信長! 信長、万事休すか…! 「金ケ崎の退き口(かねがさきののきくち)」紐解いてまいります。 金ケ崎の退き口 場所 信長の退路ルート 再三の上洛要請にも応じない「朝倉義景」に対し、信長は4月20日から越前侵攻を開始し、25日には「手筒山城」26日には「金ケ崎城」を陥落させ、朝倉義景の居城「一乗谷」に向かっていました。 その信長のもとに思いもよらない報せが届きます。 妹の「お市」が嫁いでいる、義弟である近江小谷城城主「浅井長政」が裏切ったのです。 「浅井長政の裏切り」長政とお市 1567年、お市が21歳になる年に、近江の小谷城主「浅井長政」の正室として嫁ぎ、織田家と浅井家は同盟を結び、信長と長政は、義兄弟の関係となります。 当然ながらこの結婚は、織田家の思惑(近江安定・中山道・東海道の確保)という戦国の世の事情による政略結婚となるわけですが、唯一の条件として「織田家は朝倉家に侵攻しない」という約束が交わされるものでした。 当時の長政とお市の間柄については、大変仲睦まじく、1569年には長女「茶々(後の淀殿)」、1570年には「初(はつ・京極高次正室)」、1573年には「江(ごう・徳川秀忠正室・家光母)」の3姉妹を設けました。 しかしながら、長政の父「浅井久政(あざいひさまさ)」や浅井家の家臣らの多くは、古くからの朝倉家との同盟を重視していた為、この結婚には反対だったと言います。
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【阿坂城攻め】秀吉、左脇に強弓を受けピンチ!大宮含忍斎の阿坂城を落とせ!

秀吉、左脇を射抜かれ負傷! 得意の調略で、阿坂城を落とせ! 信長の北伊勢侵略は、1567年(永禄10年)2月に始まり、翌年の2月に信長の三男信孝(のぶたか)を神戸氏の養嗣子にすることで北伊勢八郡を治めていました。 しかし、南伊勢五郡は国司大名である「北畠氏」により依然として信長に敵対する存在でした。 信長は、南伊勢に侵攻する機会を狙っていましたが、ついに1569年(永禄12年)にその機会が巡ってきます。 その年5月、当時、南伊勢国司であった北畠具盛(きたばたけとももり)の異母弟の木造城城主「木造具政(こづくりともまさ)」が誼(よしみ)を通じてきました。 それを知った北畠氏は、家臣の沢・秋山に木造城をの周りを包囲し、信長に寝返った木造具政を攻撃します。 信長は救援に滝川一益(たきがわかずます)を向かわせ「木造具正」を救出し事なきを得ますが、木造城の南方約5kmの北畠家重臣「大宮含忍斎(おおみやがんにんさい)」が守る「阿坂城」攻略を「木下秀吉(後の秀吉)」に命じます。 当時頭角を現してきた「秀吉」でしたが、これといった軍功がなかったので、信長が秀吉に手柄を立てさせるための合戦だったと言われています。 この合戦を「阿坂城攻め」と言います。 この戦で秀吉は、生涯で最初で最後の戦傷を負うことになるのです。 阿坂城攻め 場所 地図 アクセス 阿坂城は現在の三重県松阪市大阿坂町にあり国の史跡に指定されています。 当時の伊勢国司であった「北畠氏」にとって北伊勢(伊勢国北部)に対する重要な拠点でもありました。 阿坂城へのアクセスは、JR紀勢本線松阪駅、近鉄山田線松阪駅~バス/大阿坂 阿坂城攻め 織田軍v北畑衆 布陣 戦力比較 1569年(永禄12年)8月20日、信長は岐阜を出陣。軍勢は7万とも8万とも言われ、これだけの軍勢を率いた信長には南伊勢に対する相当の決意が見られます。 信長軍勢はその日のうちに北伊勢「桑名」まで進軍し、その日は桑名で野営します。 一方北畠氏も、信長の進軍を防衛態勢を敷きます。 当時の当主は「北畠具房(きたばたけともふさ)」、父の具教とともに「大河内城」に籠り、阿坂・船江などの周りの支城に兵を配備し、織田軍の進撃を阻む体制がとられました。 阿坂城攻め 合戦図
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【箕作城の戦い】信長、足利義昭を奉じた上洛に暗雲が…!合戦最多の戦死者!六角承禎立ち塞がる!

1500名を超える討死者! 六角承禎強し! 難攻不落の要害「稲葉山城」を落とし美濃を統一させ、北伊勢の有力豪族であった神戸氏・永野氏とも臣従することに成功した信長。 その年(1568年永禄11年)9月、信長は「足利義昭」を奉じ上洛します。 上洛には近江路を通る必要があり、近江には依然として信長に敵対するものがいました。 北近江は信長の妹である「お市」が「浅井長政」に嫁いでいたこともあり同盟関係であったものの、南近江は現将軍(足利義栄)を擁する立場にあり信長とは敵対している「六角承禎義賢(ろっかくしょうていよしかた)・義治(よしはる)」父子が、行く手を遮っていました。 信長は、事前に「六角承禎」に足利義昭の使者を通じ、京都守護職と領地の安堵を与えることを条件に、上洛の安全と協力を願い出ていました。 交渉も最初から低姿勢であり、しかも領地の安堵や京都守護職を与えるなどの好条件にもかかわらず、「六角承禎」はこれを拒否。 信長は力攻めで上洛することを決め、「徳川家康」「浅井長政」の援軍を率いて近江国に侵攻するのでした。 この時、上洛路の途中(南近江)にある「箕作城(みつくりじょう)」で六角承禎と戦となったのが「箕作城戦い」です。 信長の合戦の中で、最多の戦死者を出した戦いと言われています。 箕作城の戦い 場所 地図 現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山頂。(現在は廃城) 六角氏の主城となっていました。 手前が箕作山(箕作城)、正面が繖山(観音寺城)。 山間が信長と足利義昭が通った上洛路(南近江路中山道)です。 箕作城の戦い 織田信長vs六角軍 布陣 戦力比較 1568年(永禄11年)9月7日信長は、足利義昭を奉じて岐阜城を出発、上洛の途につきます。 途中「徳川家康」「浅井長政」の援軍を得て5~6万の軍勢に膨れ上がっていました。 対する六角方は、居城の箕作城と観音寺城を中心に18の支城に籠って抗戦します。 箕作城の戦い 合戦図 信長は、「徳川家康」と「浅井長政」の援軍を率い「佐和山城」から進軍を開始します。 行く道程には、六角方の支城が待ち構えます。 しかし、信長軍はその支城には一切目も触れず、9月12日に観音寺城(繖山)と中山道をはさんで対をなす「箕作城」に進軍します。 そして戦いは午後4時に始まるのです。 兵力差
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