農民の倅として生まれながら、溢れる才能と行動力で、天下人まで駆け上がった「豊臣秀吉」。
「人たらし」と言われ、厚い人情と器用さで名立たる武将たちを味方に引き入れたその手腕は、まさにあっぱれとしか言いようがありません。
現代社会の一介のサラリーマンが、国の頂点に立った出世街道は、まさにサクセスストーリーとして私たちの心を魅了します。
織田信長の後を追い、駆けずり回ったその人生、そして頂点に立った秀吉の「人生(全合戦)」を紐解いてまいります。
豊臣秀吉 年 生誕地
秀吉の出生は、当時が農民(下層階級)の為、はっきりとした記録が残されていません。
通説とされる(竹中重門「豊鑑」)では、1537年(天文6年)尾張国中村郷(現在の名古屋市中村区)に生まれたとされています。
誕生日もいくつかの説があり、1月1日(絵本太閤記)と2月6日(天正記)されていますが、家臣の伊藤盛秀の願文の記載から2月6日が有力とされています。
父(木下弥右衛門)が早く死に、母(なか)が竹阿弥と再婚し、弟の秀長(後の豊臣秀長)と朝日(後に家康に嫁ぐ)が生まます。
幼名を日輪の子「日吉丸」となっていますが、これも後の絵本太閤記の創作といわれ、実際にはよく分かっていません。
現在の生誕地は、「中村公園」として名古屋市民の憩いの場として愛されています。
豊臣秀吉 名前の変遷
戦国時代では、武将の名前がよく変わることがあります。
幼少時代、元服後、または出世する毎に名前が変わるのが通例となっていました。
秀吉もその1人で、幼名は「日吉(丸)」と言われています。しかし、これは秀吉が天下を取った後に作られた「創作(名)」といわれています。
出自が百姓ということもあり、正確な記録がないというのが事実ですが、最初に仕官した今川家松下嘉兵衛の時代(1551年14歳時)では「木下藤吉郎」と名乗っていました。
その後、1554年(17歳時)に「織田信長」に仕え、手柄を上げ「木下藤吉郎秀吉」と名乗るようになります。
秀吉の名前が、歴史にはじめて登場したのは永禄8年(1565年28歳時)11月2日付けの坪内利定宛ての知行安堵状であり、その際に「木下藤吉郎秀吉」と記載があります。
その後、浅井朝倉との戦いに戦功を上げ、元亀3年(1572年)に織田家の宿老である丹羽長秀と柴田勝家の「羽」「柴」をもらい、木下藤吉郎秀吉から「羽柴秀吉」となります。
信長の死後4年、天正14年(1586年)に正親町天皇から豊臣政を賜り「豊臣秀吉」と変遷していきました。(*山崎の合戦で光秀を破った後の「平」姓、1585年関白直前の「藤原」姓も名乗ったとされる)
豊臣秀吉 肖像画
「豊臣秀吉」といえば、誰もが知っている有名人ですね。
このコーナでは、教科書で見た「豊臣秀吉」はもちろんですが、あまり目にしたことのない「豊臣秀吉」の肖像画をご紹介してまいります。
いかがでしょうか…。いろんな秀吉がいますね…。
秀吉肖像画の特徴として、「豊臣」姓になってから(1586年)後の肖像画が多いようです。
豊臣秀吉 エピソード はげねずみ?
秀吉といえば「サル」、でも「はげねずみ」と呼ばれていた…⁉
秀吉のあだ名と言えば「サル」が通称ですが、信長から「はげねずみ」と呼ばれていたこともあったようです。
先の書状は信長が、秀吉の正妻である「おね」に出した書状であり現存するものです。(徳川美術館)
この書状には、秀吉の事を「はげねずみ」と表しており、通称であったサルとは別の表現をしています。
私の命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できない程だ。
そのお返しに、私の方からも「何をやろう」かと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったので、この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。
藤吉郎(秀吉)が何か不足を申しているとのことだが言語同断けしからぬことだ。
どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。これより先は、身の持ち方を陽快にして、奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように。
ただし、女房の役目として、言いたいことがある時はすべて言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。
この手紙は、羽柴(秀吉)にも見せること。又々 かしく藤吉郎 女ども
のぶ
あの冷酷無比なイメージのある信長が、秀吉の正室おねに対し、内心を気遣った優しい言葉で表現されています。
信長のイメージをがらりと変える、ひとつの様子が伺える手紙だと思います。
豊臣秀吉 生涯 年表と出来事・合戦一覧!
それでは、秀吉が生涯を通して生きたサクセスストーリーを見てまいりましょう。
いかにして百姓から天下人になっていったのでしょうか…。
時系列でご紹介してまいります。
年 暦 | 月 日 | 年 齢 | 出 来 事 | 内 容 |
1537年(天文6年) | 2月6日 | 0歳 | 誕生 | 尾張中村で「誕生」 |
1544年(天文13年) | 7歳 | 父との死別 | 父木下弥右衛門と「死別」 | |
1545年(天文14年) | 8歳 | 光明寺入り | 「光明寺」に入るが続かず戻る | |
1552年(天文21年) | 15歳 | 今川家に仕官 | 松下之綱に仕官「木下藤吉郎」と名乗る | |
1554年(天文23年) | 17歳 | 織田家に仕官 | 「織田信長」に小者として仕える | |
1560年(永禄3年) | 5月 | 23歳 | 桶狭間の戦い参戦 | 「桶狭間の戦い」に参戦 |
1561年(永禄4年) | 8月 | 24歳 | 結婚 | 浅野長勝養女で杉原定利娘「おね」と結婚 |
1564年(永禄7年) | 27歳 | 初手柄 | 美濃方坪内利定大沢次郎左衛門の「誘降に成功」 | |
1565年(永禄8年) | 29歳 | 歴史の表舞台に初登場 | 坪内利定宛てた「知行安堵状」に木下藤吉郎秀吉と記名 | |
1566年(永禄9年) | 30歳 | 「墨俣一夜城」 | 「墨俣一夜城」を建設 | |
1567年(永禄10年) | 31歳 | 竹中半兵衛 | 軍師に「竹中半兵衛」を組み入れる | |
1568年(永禄11年) | 32歳 | 「箕作城攻め」 | 信長上洛の際に、六角方の「箕作城攻め」に夜襲で功績をあげる | |
1569年(永禄12年) | 33歳 | 「阿坂城攻め」 | 秀吉、左脇に生涯1度の「戦傷」を追う | |
1570年(永禄13年) | 4月 | 34歳 | 「金ケ崎退き口殿軍」 | 「金ケ崎撤退」の際、浅井長政の裏切りにあい、光秀と共に殿軍を務め信長を助ける |
1570年(永禄13年) | 6月 | 34歳 | 「姉川の戦い」 | 浅井・朝倉との合戦で勝利し横山城守となり、対浅井家との最前線を任せられる |
1571年(元亀2年) | 9月 | 35歳 | 「比叡山焼討ち」 | 比叡山焼討ち参戦 |
1572年(元亀3年) | 36歳 | 改名 | 丹羽長秀・柴田勝家の羽・柴をもらい「羽柴秀吉」と改名 | |
1573年(天正元年) | 8月 | 37歳 | 「一乗谷城攻め」 | 朝倉義景自害 朝倉家滅亡 |
1573年(天正元年) | 8月 | 37歳 | 「小谷城攻め」 | 長政・久政父子自害 浅井家滅亡 信長妹お市、子(茶々・初・江)を助ける |
1573年(天正元年) | 9月 | 37歳 | 城持ち大名となる | 浅井滅亡後、旧領近江三郡を与えられ今浜を長浜と改め、「長浜城主」となる |
1574年(天正2年) | 3月 | 38歳 | 筑前守任官 | 筑前守に任官され「羽柴筑前守秀吉」となる |
1575年(天正3年) | 5月 | 39歳 | 「長篠の戦い」 | 織田・徳川連合軍として武田勝頼軍と対峙 「鉄砲隊」活躍 |
1577年(天正5年) | 41歳 | 勝家との確執 | 柴田勝家に救軍するも折り合い合わず「撤退」 信長激高する | |
1577年(天正5年) | 10月 | 41歳 | 「信貴山城の戦い」 | 「松永久秀謀反」 討伐参戦 |
1578年(天正6年) | 3月 | 42歳 | 「三木合戦」 | 竹中半兵衛の「三木の干殺し」兵糧攻め作戦 |
1578年(天正6年) | 4月~7月 | 42歳 | 「上月城の戦い」 | 織田が対毛利討伐へと決定的にした戦い 秀吉が山中・尼子救援に向かうも手が出せず敗戦となった |
1578年(天正6年) | 11月~翌11月 | 42歳 | 黒田官兵衛帰らず「有岡城戦」 | 「荒木村重謀反」により、黒田官兵衛が説得するも拉致される 翌年助けられる |
1580年(天正8年) | 1月 | 44歳 | 「三木合戦終結」 | 三木城城主「別所長治自害」 2年もの兵糧攻めで三木城ついに陥落 播磨平定 |
1580年(天正8年) | 44歳 | 「北上 但馬侵攻」 | 「山名堯熙」を攻め有子山城を落とし、弟秀長を城主とする | |
1581年(天正9年) | 45歳 | 「飢え殺しの惨劇」 | 「鳥取城」の4か月に渡る兵糧攻めで餓死者続出 | |
1582年(天正10年) | 6月 | 46歳 | 「東方の胸騒ぎ」 | 毛利方備中高松城攻めの最中に「本能寺の変」を知る |
1582年(天正10年) | 6月 | 46歳 | 2万大軍200キロ走破 | 秀吉が行った世にいう「中国大返し」 2万の大軍が200キロを走破したといわれる |
1582年(天正10年) | 6月 | 46際 | 「天下分け目」 | 信長を殺した明智光秀との天下分け目の頂上戦「山崎の戦い」光秀を破る |
1582年(天正10年) | 6月 | 46歳 | 後継者争い | 俗に言う「清須会議」 勝家は三男信孝、秀吉は信忠の子三法師を推し、後継者は三法師となった(後見は信孝) |
1583年(天正11年) | 4月 | 47歳 | 真の後継者?「賤ケ岳の戦い」 | 柴田勝家との「賤ケ岳の戦い」で秀吉が勝利し、事実上の信長後継者になる |
1584年(天正12年) | 3月 | 48歳 | 「秀吉vs家康」 | 反秀吉派の信雄・徳川連合による「小牧・長久手の戦い」 信雄を調略し和睦 |
1585年(天正13年) | 7月 | 49歳 | 百姓が公家の最高位に | 近衛前久の猶子となり「関白」となる |
1586年(天正14年) | 12月 | 50歳 | 百姓が武士の最高位に | 正親町天皇より豊臣姓を賜り「太政大臣就任」後豊臣政権確立 |
1586年(天正14年) | 50歳 | 秀吉が人質を渡す? | 家康を臣下の令をさせるために、実妹の朝日を家康正室に、実母なかを人質に差し出す | |
1587年(天正15年) | 51歳 | 「戸次川の戦い」で敗れる | 「島津家久」との九州平定で戦うも敗れる | |
1587年(天正15年) | 51歳 | 「九州平定」 | 10万の兵を動員し島津義久を打ち破り九州を平定する | |
1587年(天正15年) | 6月 | 51歳 | バテレン追放令 | 筑前箱崎(福岡市東区)で「バテレン追放令」を発布 |
1588年(天正16年) | 12月 | 52歳 | 「暴君」となる | 聚楽第に後陽成天皇、家康、信雄ら諸大名を招き、自身への忠誠を誓わせ、完璧な支配者となる |
1589年(天正17年) | 5月27日 | 53歳 | 秀吉の後継者 | 側室淀殿(茶々)が「鶴松」を出産 |
1590年(天正18年) | 2月~7月 | 54歳 | 天下統一仕上げ「小田原征伐」 | 小田原城(北条)征伐に20万の大軍勢を向け勝利 伊達政宗ら奥羽仕置き後、ついに天下を統一 |
1591年(天正19年) | 55歳 | 青天の霹靂? | 嫡男鶴松、弟秀長を病死で亡くす | |
1591年(天正19年) | 2月 | 55歳 | 二元政治と茶人 | 関白を甥秀次に譲り、二元政を執る この頃千利休に自害を命じる |
1591年(天正19年) | 55歳 | 遠く明を思う | 肥前国に名護屋城築城し、翌年文禄元年16万の兵を朝鮮に出す | |
1592年(文禄元年) | 4月12日 | 56歳 | 「唐入りは蜜の味?」 | 「文禄の役」 16万の大軍で向かうも徹底抗戦にあう |
1593年(文禄2年) | 57歳 | 朝鮮は苦かった | 明の援軍により戦況は膠着状態 ついに明と講和 | |
1593年(文禄2年) | 8月 | 57歳 | 待望の後継者 | 側室の淀が「お拾い(秀頼)」を産む |
1595年(文禄4年) | 59歳 | 関白に切腹を命じる | 殺生関白「秀次」に謀反の疑いをかけ切腹を命じる | |
1596年(文禄5年) | 9月 | 60歳 | 明との講和交渉決裂 | 明との講和交渉が決裂し、再度明への侵攻を決意 |
1597年(慶長2年) | 2月 | 61歳 | 「慶長の役」 | 14万の大軍で侵攻するも、翌年秀吉の死により撤退 |
1598年(慶長3年) | 3月 | 62歳 | 「醍醐の花見」 | 醍醐寺に桜700本を植えて大花見会を開く |
1598年(慶長3年) | 8月18日 | 62歳 | ゆめのまた夢 | 8月18日、百姓から天下人となった「秀吉」死ぬ |
死の間際、まだ6歳の秀頼の身を案じながら、貧農の子から天馬をのように駆け昇り、天下人となった秀吉は1598年(慶長3年)8月18日62年の生涯を閉じます。
日輪の子として生まれ、昇りつめ、日本中の隅々まで照らし続けた巨星は、静かに沈んでいきます。
天下人のサクセスストーリー、壮絶な人生だったに違いないと思いますが、現代社会に生きる私(たち)の憧れでもありますね…。
豊臣秀吉 辞世の句
最後に、秀吉が死ぬ間際に詠んだとされる辞世の句をご紹介します。
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