今川義元

信長全合戦

【吉良の地侵攻】桶狭間の戦いの真実!今川義元が桶狭間出陣を決断した信長の挑発行為とは…⁉

今川義元へ宣戦布告か⁉ 吉良侵攻! 前年の1559年(永禄2年)3月に岩倉城攻略でついに「尾張統一」を果たした信長ですが、尾張の東方である愛知郡から知多郡にかけての「鳴海城」「大高城」「沓掛城」は今川方の城となっています。 そこで信長は、「鳴海城」に丹下・中島・善照寺砦を築き「大高城」との間を遮断します。 その上、今川義元の怒りを買うような大胆な攻撃にでます。 敵陣である三河の奥深く「吉良」の地まで出撃し、今川の出鼻を挫くかの如く、領内を放火し物資を奪い退却します。 大国である今川相手に奇抜な行動をとった信長。 通常であれば、隣の大国に対し、手を出さずそっとしておくのが慣例とも思えますが、「吉良の地侵攻」は、信長にしか考え付かない、今川義元への宣戦布告の侵攻となります。 吉良の地侵攻 場所 合戦図 場所は愛知県西尾市吉良町にあり、清州城から約60kmのところにあります。 信長の居城である清州城から、合戦場となる吉良の地まではおよそ60km。 その間には、すでに今川に落ちている「大高城・鳴海城・沓掛城」がありますが目の前を通るわけにはいきません。 そこで信長は、それぞれの城に、味方となる「砦」を築き「*中入り」の戦術で、吉良の地を攻撃します。 *中入りとは、目の前の敵と対峙したまま、別同部隊を迂回させ目的地へ向かう戦術をいう 隣国の大国を相手に、まさかとも思える信長の作戦。 なぜ、「寝た子(今川義元)を起こす」とも思える作戦を取ったのでしょうか…? 吉良の地侵攻 信長軍vs今川軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【今川軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【今川軍】 三河侵攻(今川への牽制か?) 偶発 主な参戦武将 【信長軍】 【今川軍】 織田信長 他 不明 吉良の地侵攻 経緯 勝敗 「中入り」の戦術で、三河の吉良の地を焼き払った信長。 今川義元は、この報せを知った時、「自分に歯向かうとは…」と、大激怒したと言います。 そして義元は、今川の大軍2万5000を率い、上洛途中にある尾張信長を討伐することを決意するのです。 討死武将 【信長軍】 【今川軍】 【不明】 【不明】 勝敗 【信長軍】 【今川軍】 吉良の地焼き払い
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【村木砦の戦い】織田家存続を賭けた桶狭間の前哨戦!信長が鉄砲を使い今川(義元)軍を撃破!

鉄炮炸裂! 織田信長が一躍戦国の世の表舞台に出たとされる「桶狭間の戦い」の6年前の1554年(天文23年)、合戦で初めて鉄砲を使い「今川(義元)軍」に勝利した「村木砦の戦い」。 隣国の巨大領主である「今川義元」とは、すでにこの頃から戦いは始まっていました。 桶狭間の戦いの前哨戦にもつながるこの戦いは、その後の「織田家存亡」の重要な意味を持った戦いだったのです。 そのような意味を持つ「村木砦の戦い」とはいったいどのような合戦だったのでしょうか…。 村木砦の戦い 戦況 信長の父、信秀が1551年に死んだ後、絶好の好機とばかり今川義元は尾張への侵攻をさらに強めます。 すでに尾張領内の一部である鳴海城・大高城・沓掛城を手中に収め、続く知多の寺本城・重原城も抑えている今川義元は、唯一残っている水野信元が守る「緒川城」を攻略しようとします。 そこで義元は、緒川城のすぐ傍にある、水運に適した「村木の岬」に砦を築き三河の松平義春を城将としました。 緒川城の水野信元から援軍を受けた信長は、1554年(天文23年)1月21日に兵を率い那古野城を出発します。 翌22日、すでに陸路は今川軍に抑えられているために進軍できず、熱田から海路で渡海し23日に緒川城へと到着します。 そして24日朝方から、今川軍が砦を築いている「村木」の地で戦いは始まるのです。 村木砦の戦い 場所 合戦図 「村木砦の戦い」の場所は、現在の愛知県知多郡東浦町八劔神社にあります。(参考:Googleマップ) 現在の萱津古戦場跡地。住宅街になってます。 村木砦の戦いの経緯は、すでに尾張領内へと着々と侵攻してくる今川軍が、下尾張(知多)の最期の城でもあった緒川城への侵略ために、村木の地へ砦を築いたところから始まります。 信長はすぐにでも那古野城を出発したいのですが、そのころの信長の戦力は小さく尾張領内にも敵がいたため、長く城を空ける訳にはいきません。 そこで信長が行った策が、美濃の斉藤道三(妻帰蝶の父)の援軍を借り、帰陣するまでの間、城を守ってもらう事でした。 那古野城の憂いを無くした信長は進軍します。しかし陸路はもはや今川軍が包囲しているため通れず、熱田からの海路しか選択の余地がありませんでした。
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【桶狭間の戦い】の真実をわかりやすく解説!わずか10分の1兵力で義元討ち取る!信長、奇襲成功⁉

織田信長軍2,000vs今川義元軍20,000‼ 信長、絶体絶命! 1560年(永禄3年)わずか2千の兵で、2万の大軍を打ち破った奇襲戦、「桶狭間の戦い」! 尾張の弱小大名、若干27歳の「織田信長」が、駿河国の今川家大将「今川義元」を打ち取った戦いです。 この戦いによって、「織田信長」という新しいヒーローが、戦国の表舞台に立つことになります。 上洛へと動いた今川義元 1560年(永禄3年)5月12日、今川義元は上洛のため総勢2万を超える大軍を率い駿府を出立、東海道を西進します。 行く先々には、今川義元の行く手を阻む、戦国の大名がひしめきます。 尾張の「織田信長」をはじめ、美濃「斎藤道三」、北近江「浅井長政」、南近江「六角義賢」と上洛ルートには名だたる戦国武将が立ちはだかります。 しかし、その中でも最小最弱といわれた信長。 義元の領国から比べれば、信長の持つ尾張の領土は、石高も兵力も10分の1以下。 どう見ても、信長が適うような相手ではありませんでした。 5月17日、三河「沓掛城」に入った今川軍は、「松平元康(徳川家康)」を先鋒に、5月18日「大高城」に兵糧を届けさせた後に、織田軍の砦である「丸根砦」「鷲津砦」の攻撃を命じます。 桶狭間の戦い 追い詰められた信長…。 清州城でこの報せを聞いた信長。 ついに今川軍が尾張領内に進軍して来るとの報せに、立ったまま湯付けをかきこみ、翌日の午前4時に鎧具足を付けて出陣します。 あまりの急な出陣の要請に付き従ったのは、わずか数名の小姓衆だけでした。 桶狭間の戦い 場所 現在 地図 アクセス 桶狭間の戦いの場所は、現在の愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目にあり、、現在は「桶狭間古戦場公園」となって市民の憩いの場になっています。 名鉄「名古屋」駅から、名鉄「有松」駅で下車(約20分)。 市バスにて「幕山(桶狭間古戦場公園)」バス停下車(約5~6分)、徒歩約2分です。 名古屋第二環状自動車道「有松インター」より約5分程で着きます。 桶狭間の戦い 信長vs義元 兵力(人数)比較 織田軍 今川軍 兵力差 【織田軍】 【今川軍】 2000 2万5000 戦闘目的 【織田軍】 【今川軍】 尾張防衛 野戦 西上(上洛) 侵攻 野戦 主な参戦武将 【織田軍】
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