【桶狭間の戦い】の真実をわかりやすく解説!わずか10分の1兵力で義元討ち取る!信長、奇襲成功⁉

スポンサーリンク

 

1560年(永禄3年)わずか2千の兵で、2万の大軍を打ち破った奇襲戦、「桶狭間の戦い」!

尾張の弱小大名、若干27歳「織田信長」が、駿河国の今川家大将「今川義元」を打ち取った戦いです。

この戦いによって、「織田信長」という新しいヒーローが、戦国の表舞台に立つことになりました。

桶狭間今川義元血戦

桶狭間の戦い 信長vs義元 兵力(人数)比較

織田軍 今川軍 兵力差

【織田軍】 【今川軍】
2000 2万5000

戦闘目的

【織田軍】 【今川軍】
尾張防衛

野戦

西上(上洛)

侵攻 野戦

主な参戦武将

【織田軍】 【今川軍】
織田信長・森可成・河尻秀隆・前田利家・長谷川橋介・林秀貞・佐々成政・金森長近・池田恒興・佐脇良之・毛利秀頼・岩室重休・簗田政綱・服部一忠・毛利良勝・山口飛騨守 朝比奈親徳・庵原之政・庵原忠縁・庵原忠春・松平政忠・関口親永・三浦義就・久野氏忠・藤枝氏秋・長谷川元長・吉田氏好・富永氏繁・江尻親良・飯尾乗連・瀬名氏俊・本多忠高

討死武将

【織田軍】 【今川軍】
佐々政次・千秋李忠 今川義元・松井宗信・久野元宗・井伊直盛・由比正信・一宮宗是・蒲原氏徳

桶狭間の戦い 作戦その1「籠城か?討って出るか?」

桶狭間の戦い前夜、信長の居城(清州城)では軍議が開かれていましたが、2万の今川軍相手に「籠城か?それとも討って出るのか?」軍議は雑談ばかりで進みませんでした。

このような火急の事態に、何も進言しない信長に、重臣たちはイラつきはじめ、そこへ信長の「夜も更けたので帰宅せよ」との発言に、重臣たちも呆れ返ったといいます。

桶狭間の戦い 作戦その2 深夜三時の「敦盛」を舞い覚悟を決める⁉

午前3時、丸根砦と鷲津砦に、早朝今川軍攻撃の進駐があると聞くと信長はムクっと起き上がり「敦盛」を舞い始めます。

「人間50年 下天のうちを くらぶれば 夢幻のごとくなり

ひとたび生を受け 滅せぬものの あるべきか」

敦盛の一節を舞った後、立ったまま湯漬けをかきこみ、清州城を発ち、あまりにも急な信長の行動に、連れ添った家臣たちはわずか数名だけだったといいます。

スポンサーリンク

桶狭間の戦い 作戦その3 「いつ⁉」タイミング

清州城を発ち、上知我麻神社(現:熱田神宮)へ戦勝祈願に行った信長は、自軍である織田軍の集結を待ちます。

4000程集まったところで、丹下砦、善照寺砦に寄り、丸根砦と鷲津砦が完全に落ちたのを確認して、2000余りで中島砦に向かった後、「簗田政綱」より今川本隊が桶狭間山で休息を取っている情報がもたらされます。

「義元が、桶狭間に…!」

信長は、まさにこの“瞬間”を待っていました。(Photo:Yomiuri online)

桶狭間の戦い 作戦その4 豪雨「狙うは義元の首のみ!」

義元本隊が桶狭間で休息している情報を知り、今川先鋒隊への攻撃を進言!その直後に「当然の豪雨」

信長は先遣隊が必死の戦いを挑んで、敵の目を引き付けている間に、兵2千を率いて疾風の如く桶狭間の山に兵を進めます

桶狭間の山際から、ついに今川本隊の旗印が目に入ります。

「皆のども、かかれ、狙うは義元の首のみぞ!」

一気果敢に本体へ攻め入る織田軍、両軍入り混じっての大乱戦の末、織田方の「服部小平太(一忠)」「毛利新助(良勝)」が、義元を討ち取ります。

桶狭間の戦い 奇襲戦はウソ!?

今までの定説では、今川本隊が休息している隙に、桶狭間山を迂回し敵の後方に迫り一気に奇襲をかけた、という事になっていますが、「信長公記」を解釈すると、信長は中島砦より桶狭間の丘陵に着陣する義元の本陣に正面攻撃を敢、と記されています。

 

桶狭間の戦い 勝利の方程式は「情報戦」

定説である「奇襲」戦は、義元本隊の後側まで大きく迂回し突入した、という事ですが実際は迂回したという資料等は見当たりません。

では、なぜ信長は迂回(奇襲も)せずに義元本隊を見つけ、戦いを臨み勝利することができたのでしょうか。信長が動いた行動を元に推察してみましょう。

この戦いで信長は、徹底的な情報網を敷いています。信長の戦いはその情報の緻密さによって行われたと考えられるのです。

まず、決戦前夜、2万の大軍で寄せてくる今川軍を迎えて、「籠城すべきか出撃すべきか」の軍議を開くも、世間話の雑談をするばかりで軍法など一口もなく、「もう夜も更けた、皆も家に帰れ」と席を立っています。

本心は「出撃あるのみ」と心に決めているものの、それを口に出せば、必ずどこからか敵の耳に入ることを警戒したと思われ、「敵を欺くためには、まず味方を欺く」といった情報戦の基本に従っています。

織田軍(信長)の勝利は、もはや圧倒的劣勢のため義元の首を討ち取るのみしかなく、そのためには「義元本隊」と「他部隊」(合せて2万)を引き離し、供回りが少ない状態で本隊突入しかなく、信長はそのような状態(義元本隊の兵力が少なくなる瞬間)をひたすら待っていた、と考えられます。

翌未明、「鷲津・丸根に今川進軍」の情報を得て、いよいよ信長は動き出します。わずか5人の小姓を連れ、清州城を駆け出し熱田で戦勝祈願し家臣の集結を待ち、この時も、敵に情報が漏れることを防ぐため陣揃えなど一切行われていません。

信長は自らの意図や行動を、今川の目から徹底的に隠し、他方では敵の行動を探るための情報網を張りめぐらせ、突入のチャンスを待っています。

家臣の簗田政綱に命じて地百姓に変装させ、 西上する今川軍の動きを逐一報じさせ、義元が桶狭間山で休息しているとの報せを聞いた時、「そのチャンス」は訪れます

熱田から善照寺砦に入った際、その軍勢はわずか二千。信長はその兵力の半数近くを割いて、既に陥落している鷲津・丸根の砦に向かわせ、あえて奪還に向かわせた如く、今川の目をそちらの方へ引き付けます。そして、自ら義元本隊に接近するため中島砦に入った際、本隊突入後も兵がまだ砦に居るかのように見せかけるため、中島砦には旗指物を立てさせ準備しました。

そして、豪雨がやんだのを見計らって、一気に攻撃を仕掛けたというのが真相だと考えられます。

「桶狭間の戦いは」信長が迂回して義元に迫った奇襲戦ではなく、真っ向勝負の正面攻撃による戦いであり、勝利をもたらしたのは、自らの情報を完璧に隠し続け、しかし義元の情報は微細に至るまで探り、勝つチャンスを狙った「情報戦」の勝利であったとみられます。

戦後、信長はこの戦いの戦功第一として、一番槍を付けた服部小平太ではなく、義元本隊の居場所を知らせた簗田政綱」を上げています。褒美として3000貫(現価値約3億円)と沓掛城も与えています。

ちなみに義元を斬り、その首級を挙げた服部小平太は1000貫、毛利新介は500貫が与えられました

桶狭間の戦い 勝敗

【織田軍】 【今川軍】

【勝因】

情報を網羅し、勝てるチャンスを狙った

【敗因】

兵力差による油断とおごり

今川vs織田 桶狭間の戦い 情報が兵力に勝る!

戦国時代の合戦は、兵の数が多い方圧倒的に有利だったに違いありません。

しかし信長は兵力は少なくても、戦に勝つ方法として、敵の情報を徹底的に探り報告させています

「桶狭間の戦い」情報が兵力に勝った(情報>兵力)戦いの一つであると言えますね。

 

斉藤義龍に苦戦!信長バトル18【西美濃侵攻戦!】

佐久間盛重、松平元康(家康)に玉砕!信長バトル16【丸根砦の戦い!】

「織田信長」について!全合戦・年表一覧!

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です