お市

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【小谷城の戦い】小谷城攻め②織田信長長男「織田信忠」ここに初陣!

織田信長嫡男「織田信忠」の初陣! 「織田信長」vs「浅井長政」 信長、長政への4度目の挑発! 1572年(元亀3年)7月21日、つい4か月ほど前に、浅井長政の小谷城麓を焼き払い挑発を仕掛けたものの、長政が挑発に乗らず「不戦」となった矢先、信長は嫡男の「織田信忠」を連れ、ついに5万を越える大軍勢を率い江北へ進軍し、今では宿敵となった「浅井長政」と雌雄を決しようとします。 5万の軍勢で一気に決着を決めたい信長、「信忠」を連れた、この「小谷城の戦い②」の合戦、壮絶な戦いとなるのか…、紐解いてまいりましょう! 小谷城 場所 アクセス 滋賀県長浜市湖北町伊部にあり、城址は史跡に指定されています。 信長vs長政 4度目の挑発 「金ヶ崎の退き口」で、長政の裏切りに合い九死に一生を得た信長でしたが、 長政討伐を決めた最初の挑発が「姉川の戦い」でした。 2度目が「小川・志村・金森城攻め」で、3度目が4か月前の「小谷城攻め①」でした。 信長は、嫡男信忠を連れ5万の大軍勢でいよいよ決着を付けに小谷城へ乗り込みます。 小谷城の戦い② 信長軍vs長政軍 布陣 戦力比較 7月21日。信長は5万の大軍で江北に進軍します。 まず最初に、小谷城の目の前にある虎御前山に本陣を布き、横山城まで続く長大な要害を作り始めます。 「木下秀吉」には、すぐ西側にある山本山城を攻めさせ、周辺の一向一揆の拠点となっていた砦を崩し、琵琶湖上からは「明智光秀」が水軍を率いて鉄炮・大砲で竹生島や沿岸を攻撃させます! これを見た浅井氏は、「朝倉氏に河内・長島で一向一揆が起き、尾張と美濃の間の道をふさいだので、今が好機、すべてを殲滅しましょう」とばかり、朝倉氏の出陣を促します。(これは朝倉を出陣させるためのウソ) 朝倉氏は浅井氏からの要請に、越前朝倉軍を含めた2万の軍勢(義景1万5000、朝倉景鏡の5000)を救援に駆けつけます。 29日には朝倉義景の1万5000が小谷城へ到着したものの、信長の大軍勢(5万)を前に、小谷城の北側にある大嶽山に登ったまま静観します。 兵力差 【信長軍】 【浅井・朝倉軍】 5万 約3万5000 戦闘目的 【信長軍】 【浅井・朝倉軍】 浅井家討伐 応戦 主な参戦武将 【信長軍】 【浅井・朝倉軍】
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【小谷城の戦い】「小谷城攻め①浅井長政への3度目の挑発!」”長政よ、出てこい‼”

「織田信長vs浅井長政」長政への3度目の挑発! 信長vs長政の最終決着となる「小谷城の戦い」(1573年天正元年)が起こるまで、両者の間では数回の前哨戦(合戦)が繰り広げられました。 1570年(元亀元年)に、信長の妹「お市」の嫁ぎ先であった義弟の浅井長政の裏切り(金ケ崎退き口)に合ってから、信長の矛先は「浅井・朝倉討伐」へと向けられます。 1回目が2か月後の「姉川の戦い」で両軍激しい戦いとなりましたが決着がつかず、2度目が昨年9月(1571年元亀2年)「小川・志村・金森城攻め」の際に、長政居城の城下である余呉・木ノ本を放火したものの、長政は信長の挑発には乗らず出陣しませんでした。 その後、延暦寺が朝倉・浅井家を擁護し、怒りの頂点に立った信長は、延暦寺のすべての宝塔・宝物、高僧、女性から子供まですべてを焼討ち(比叡山焼討ち)してしまい、今では反信長勢力の筆頭となった浅井・朝倉討伐は避けられない状況となっていました。 信長vs長政の最終決戦である「小谷城の戦い」の前哨戦である今回の戦い(挑発)に、長政は応じるのか…? 信長vs長政「小谷城の戦い①」紐解いてまいりましょう。 小谷城 場所 アクセス 滋賀県長浜市湖北町伊部にあり、城址は史跡に指定されています。 信長vs長政 長政よ出てこい… 1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦いで義兄信長との同盟関係を一方的に破棄した長政は、同年6月に姉川の戦いで大きな損傷を受けたものの、15代将軍足利義昭の呼びかけに応じ石山本願寺らと信長包囲網を敷き、反信長体制を固めます。 義弟の浅井長政の裏切りにあい、九死に一生を得た信長ですが、なんとしても朝倉・浅井征伐を貫き通したいと思っているところ、1573年(元亀3年)3月5日に長政討伐に向けて江北に出陣します。 二日後の7日には小谷城と山本山城の間で野営をし、長政を小谷城から誘い出そうと挑発します。 小谷城の戦い① 信長軍vs長政軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【長政軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【長政軍】 浅井家討伐 応戦 主な参戦武将 【信長軍】 【長政軍】 織田信長・明智光秀・丹羽長秀・中川重政 他 浅井長政・阿閉貞征・朝倉義景・前波吉継・富田長繁 他 討死武将 【信長軍】
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【金ケ崎の退き口】信長大ピンチ!「絶体絶命」!金ケ崎の戦い!

浅井長政(義弟)が裏切った‼ 信長、挟撃され絶体絶命…! 織田信長戦史の中で、信長自身が最も追い詰められ絶体絶命となった撤退戦。 戦国でも有名な撤退戦で、金ケ崎の退き口(かながさきののきくち)、金ケ崎崩れ(かながさきくずれ)、金ケ崎の戦い(かながさきのたたかい)などと言われています。 相手は越前朝倉家10代当主「朝倉義景(あさくらよしかげ)」。 4月20日から越前侵攻を開始し、2日前の26日に朝倉支城である「金ケ崎城」を陥落させ、朝倉義景の一乗谷に向かう際に、妹の「お市」が嫁いでいる「浅井長政(あざいながまさ)」の裏切りにより、前後を挟撃され窮地に立たされます。 前方には「朝倉義景」、後方には「浅井長政」、まさに最大の窮地へと追い詰められた信長! 信長、万事休すか…! 「金ケ崎の退き口(かねがさきののきくち)」紐解いてまいります。 金ケ崎の退き口 場所 信長の退路ルート 再三の上洛要請にも応じない「朝倉義景」に対し、信長は4月20日から越前侵攻を開始し、25日には「手筒山城」26日には「金ケ崎城」を陥落させ、朝倉義景の居城「一乗谷」に向かっていました。 その信長のもとに思いもよらない報せが届きます。 妹の「お市」が嫁いでいる、義弟である近江小谷城城主「浅井長政」が裏切ったのです。 「浅井長政の裏切り」長政とお市 1567年、お市が21歳になる年に、近江の小谷城主「浅井長政」の正室として嫁ぎ、織田家と浅井家は同盟を結び、信長と長政は、義兄弟の関係となります。 当然ながらこの結婚は、織田家の思惑(近江安定・中山道・東海道の確保)という戦国の世の事情による政略結婚となるわけですが、唯一の条件として「織田家は朝倉家に侵攻しない」という約束が交わされるものでした。 当時の長政とお市の間柄については、大変仲睦まじく、1569年には長女「茶々(後の淀殿)」、1570年には「初(はつ・京極高次正室)」、1573年には「江(ごう・徳川秀忠正室・家光母)」の3姉妹を設けました。 しかしながら、長政の父「浅井久政(あざいひさまさ)」や浅井家の家臣らの多くは、古くからの朝倉家との同盟を重視していた為、この結婚には反対だったと言います。
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【姉川の戦い】血で血を洗った合戦とは?合戦の布陣や経緯・場所をかんたん解説!長政とお市のその後…?

血で血を洗った合戦! 1570年(永禄10年)「姉川の戦い」。 「織田(信長)・徳川(家康)軍」と「浅井(長政)・朝倉(義景)軍」が戦った合戦です。 合戦場となった姉川が、兵たちの赤い血で真っ赤に染まったと言います。 浅井家と言えば、織田信長の妹「お市」が嫁いだ名家でもあります。 義弟はあの「浅井長政」。 「お市」と「長政」は仲睦まじい夫婦と言われ、幸せな時を過ごし1男3女を授かります。 しかしながら、信長にとって自分の妹が嫁いだ相手となぜ合戦を…? 合戦の原因や経緯、その後のお市・長政がどうなったのか解説してまいります。 姉川の戦いをわかりやすく 事の始まりは「袋の鼠」 姉川の戦いがはじまる以前、織田家と浅井家は信長の妹「お市」が嫁いでいることもあり「同盟関係」にありました。 同様に、浅井家は朝倉家とは信長と同盟を結ぶ以前に「同盟」(主従関係)を結んでいました。 当時の信長は、室町幕府が衰退し信長が幕府の守護となっていたたため、朝倉義景への上洛の命を出し臣下の意を表させようと画策していましたが、義景はそれをずっと無視していました。 幾度の上洛の命を出す信長と、それを無視し続ける義景、信長と義景の関係は一触即発の状態でした。 実は、浅井と朝倉が同盟を結んだ後から、同盟関係を結んだ信長と長政ですが、同盟の際には「朝倉と戦をしない」という約束が交わされていました。 しかし、朝倉への再三の上洛にも無視を続ける義景に、ついに堪忍袋が切れ、信長は長政との約束を破り兵を上げます。 朝倉と金ケ崎城で対峙する中、長政は朝倉義景から援軍を出すように言われます。 織田家(信長)と朝倉家(義景)の両方と同盟を結んでいる浅井家(長政)は、考えに考えた末、信長との同盟を解消し、朝倉側に援軍を出す事を決意します。(信長と決別) そして信長が朝倉軍と対峙している「背後」へ兵を出すのです。 信長は、前方に朝倉、背後に浅井と、完全に挟まれてしまい「袋の鼠」となってしまい撤退を余儀なくされます。 殿(しんがり)に木下(羽柴)秀吉、明智光秀を残し、数騎の共を連れ添っただけで命からがら京都へ逃げ帰ったというのです。(金ケ崎退き口) このことが後に信長の怒りを買うことになり、「姉川の戦い」へと進んでいくことになるのです。 姉川の戦い 場所 地図 アクセス
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