「織田信長vs浅井長政」長政への3度目の挑発!
信長vs長政の最終決着となる「小谷城の戦い」(1573年天正元年)が起こるまで、両者の間では数回の前哨戦(合戦)が繰り広げられました。
1570年(元亀元年)に、信長の妹「お市」の嫁ぎ先であった義弟の浅井長政の裏切り(金ケ崎退き口)に合ってから、信長の矛先は「浅井・朝倉討伐」へと向けられます。
1回目が2か月後の「姉川の戦い」で両軍激しい戦いとなりましたが決着がつかず、2度目が昨年9月(1571年元亀2年)「小川・志村・金森城攻め」の際に、長政居城の城下である余呉・木ノ本を放火したものの、長政は信長の挑発には乗らず出陣しませんでした。
その後、延暦寺が朝倉・浅井家を擁護し、怒りの頂点に立った信長は、延暦寺のすべての宝塔・宝物、高僧、女性から子供まですべてを焼討ち(比叡山焼討ち)してしまい、今では反信長勢力の筆頭となった浅井・朝倉討伐は避けられない状況となっていました。
信長vs長政の最終決戦である「小谷城の戦い」の前哨戦である今回の戦い(挑発)に、長政は応じるのか…?
信長vs長政「小谷城の戦い①」紐解いてまいりましょう。
小谷城 場所 アクセス
滋賀県長浜市湖北町伊部にあり、城址は史跡に指定されています。
信長vs長政 長政よ出てこい…
1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦いで義兄信長との同盟関係を一方的に破棄した長政は、同年6月に姉川の戦いで大きな損傷を受けたものの、15代将軍足利義昭の呼びかけに応じ石山本願寺らと信長包囲網を敷き、反信長体制を固めます。
義弟の浅井長政の裏切りにあい、九死に一生を得た信長ですが、なんとしても朝倉・浅井征伐を貫き通したいと思っているところ、1573年(元亀3年)3月5日に長政討伐に向けて江北に出陣します。
二日後の7日には小谷城と山本山城の間で野営をし、長政を小谷城から誘い出そうと挑発します。
小谷城の戦い① 信長軍vs長政軍 布陣 戦力比較
兵力差
【信長軍】 | 【長政軍】 | ||
不明 | 不明 |
戦闘目的
【信長軍】 | 【長政軍】 | ||
浅井家討伐 | 応戦 |
主な参戦武将
【信長軍】 | 【長政軍】 | ||
織田信長・明智光秀・丹羽長秀・中川重政 他 | 浅井長政・阿閉貞征・朝倉義景・前波吉継・富田長繁 他 |
討死武将
【信長軍】 | 【長政軍】 | ||
不明 | 不明 |
小谷城の戦い① 結果
7日に小谷城のすぐ麓で陣を張った信長でしたが、2日経った9日になっても長政はその誘いに出てこないまま、この「小谷城の戦い①」は終了することになります。
信長は、小谷城下の余呉・木ノ本に放火しその日(9日)横山城に戻りました。
【信長軍】 | 【長政軍】 | ||
挑発するも、乗らず | 挑発に乗らず |
小谷城の戦い① まとめ
浅井家討伐のため、長政をおびき出すための3度目の出陣となったこの合戦でしたが、姉川の時のように誘いには乗らず、長政は城に籠ったまま出てこようとはしませんでした。
反信長連合(信長包囲網)軍は隙を見ては挙兵し、信長が対抗して出陣すると、また籠城するといった、戦術を繰り返すのでした。
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