浅井長政(義弟)が裏切った‼
信長、挟撃され絶体絶命…!
織田信長戦史の中で、信長自身が最も追い詰められ絶体絶命となった撤退戦。
戦国でも有名な撤退戦で、金ケ崎の退き口(かながさきののきくち)、金ケ崎崩れ(かながさきくずれ)、金ケ崎の戦い(かながさきのたたかい)などと言われています。
相手は越前朝倉家10代当主「朝倉義景(あさくらよしかげ)」。
4月20日から越前侵攻を開始し、2日前の26日に朝倉支城である「金ケ崎城」を陥落させ、朝倉義景の一乗谷に向かう際に、妹の「お市」が嫁いでいる「浅井長政(あざいながまさ)」の裏切りにより、前後を挟撃され窮地に立たされます。
前方には「朝倉義景」、後方には「浅井長政」、まさに最大の窮地へと追い詰められた信長!
信長、万事休すか…!
「金ケ崎の退き口(かねがさきののきくち)」紐解いてまいります。
金ケ崎の退き口 場所 信長の退路ルート
再三の上洛要請にも応じない「朝倉義景」に対し、信長は4月20日から越前侵攻を開始し、25日には「手筒山城」26日には「金ケ崎城」を陥落させ、朝倉義景の居城「一乗谷」に向かっていました。
その信長のもとに思いもよらない報せが届きます。
妹の「お市」が嫁いでいる、義弟である近江小谷城城主「浅井長政」が裏切ったのです。
「浅井長政の裏切り」長政とお市
1567年、お市が21歳になる年に、近江の小谷城主「浅井長政」の正室として嫁ぎ、織田家と浅井家は同盟を結び、信長と長政は、義兄弟の関係となります。
当然ながらこの結婚は、織田家の思惑(近江安定・中山道・東海道の確保)という戦国の世の事情による政略結婚となるわけですが、唯一の条件として「織田家は朝倉家に侵攻しない」という約束が交わされるものでした。
当時の長政とお市の間柄については、大変仲睦まじく、1569年には長女「茶々(後の淀殿)」、1570年には「初(はつ・京極高次正室)」、1573年には「江(ごう・徳川秀忠正室・家光母)」の3姉妹を設けました。
しかしながら、長政の父「浅井久政(あざいひさまさ)」や浅井家の家臣らの多くは、古くからの朝倉家との同盟を重視していた為、この結婚には反対だったと言います。
このような背景の中、再三の上洛要請に無視し続けた「朝倉義景」の態度に業を煮やした信長は、長政との約束を破り、越前侵攻「朝倉義景」討伐に向かうことになります。
この信長の行動に対し、浅井家は織田家より朝倉家との同盟を重視し「朝倉義景」に援軍を出すことになったのです。
「信長を挟撃せよ」!
信長、絶体絶命!
信長は義弟の「浅井長政」が裏切ったという報せを、はじめは「虚説たるべき」(信長公記)と言い、信じませんでした。
しかし、これが事実だとすれば、織田軍は前方に「朝倉義景」軍、後には「浅井長政」軍から挟撃され、全滅する恐れが出てきます。
信長は、次々と入る報せに、これは真実だと認めざるを得なくなり、ついに撤退を決意します。
「全軍撤退」‼
(注)信長が義弟長政の裏切りを察知した理由については、近江・若狭方面の外交・諜報を行っていた「松永久秀」が浅井方の不審な動きに気づいて通報したと「朝倉記」には記載がありますが信憑性が乏しいために実際は不明。また「お市」が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り長政の裏切りを知らせたと言う逸話(朝倉家記)が知られていますが俗説というのが有力。
金ケ崎の退き口 織田軍v浅井朝倉軍 布陣 戦力比較
越前侵攻を優位に進めていたはずの信長でしたが、一気に形勢が逆転し絶体絶命のピンチに陥ります。
兵力差
【織田軍】 | 【浅井朝倉軍】 | ||
3万 | 朝倉守備隊4500+浅井朝倉2万 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【浅井朝倉軍】 | ||
朝倉討伐から一気に撤退へと | 信長挟撃 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【浅井朝倉軍】 | ||
織田信長・徳川家康・池田勝正・木下秀吉・明智光秀・松永久秀・朽木元綱 他 | 浅井長政・朝倉義景 他 |
秀吉、光秀、勝正、時間を稼げ!
全軍撤退を決断した信長は、「木下(羽柴)秀吉」を金ケ崎城に入れ、「明智光秀」と「池田勝正」に*殿(しんがり)を任せます。
*殿(しんがり):敵の追撃を食い止めるための討死覚悟の任務。大将が無事に逃げ通すための時間稼ぎをする大役。
信長は京への撤退路に、敵軍に追いつかせないためにも、悪路で困難な「朽木谷」を越えるルートを選びます。
しかし、逃走途上には朽木谷の領主「朽木元綱(くつきもとつな)」がおり、ここを越えなければ無事に逃げ通すことが出来ません。
「朽木元綱」は、当時浅井長政と幕府から知行を受けていた浅井方武将だったのです。
この窮地を脱することが出来たのが、当時は信長の家臣となっていた「松永久秀(まつながひさひで)」。
大仏焼討ち、将軍殺し、最期は信長に謀反し、壮絶な爆死を遂げたとしても有名ですが、当時は信長の家臣となっており越前侵攻から随行しており、この松永久秀の朽木元綱への働きかけ(説得)により、信長は無事通過できることになります。
難所であった朽木谷を無事越えた信長は、撤退開始から丸2日、30日に京都にたどり着くことになります。
討死武将
【信長軍】 | 【浅井朝倉軍】 | ||
(殿軍)1500余 | 不明 |
金ケ崎の退き口 結果
4月20日から越前侵攻を開始し、25日には「手筒山城」、26日には「金ケ崎城」を陥落させた信長でしたが、義弟「浅井長政」の裏切りに合い、撤退を余儀なくさせられました。
撤退は、「池田勝正」「明智光秀」「木下秀吉」を殿(しんがり)に、朽木谷越では「松永久秀」の与力もあり、命からがら「京」へ戻ることになりました。
京へ着いた時の信長のお供衆は10数名ほどだったと言われています。
【信長軍】 | 【浅井朝倉軍】 | ||
命からがらの撤退 | 信長の越前侵攻は阻止できた(勝利した)が、信長撤退の際に仕留めるまでは出来なかった |
金ケ崎の退き口 まとめ
1570年(永禄13年)4月20日、徳川家康、松永久秀軍を加え総勢3万の軍勢で越前侵攻「朝倉義景」討伐に出立した信長。
26日には、朝倉方の支城である「天筒山城」と「金ヶ崎城」を落城させましたが、義弟浅井長政の裏切りで一転、絶体絶命のピンチに陥るものの、家臣軍の働きによって無事に京へと戻ります。
多少の犠牲を払い無事撤退はできたものの、その後近江の主要路である「中山道」と「東海道」が封鎖され上洛ルートが遮断されてしまいます。
義弟長政の裏切りに怒りが頂点に達する信長…!
信長の怒りはこの後、浅井・朝倉の滅亡へ繋がる「姉川の戦い」へと発展していくことになるのです。
血で血を洗う「姉川の戦い」ついに勃発!信長バトル46【姉川の戦い】!
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