【志賀の陣】比叡山焼討ちの原因となった合戦!信長、屈辱の和議に怒り心頭!!
信長、屈辱の和議申し立てに"怒り心頭!" 比叡山焼討ちの原因はこの合戦だった! 1571年(元亀2年)9月12日、壮絶な殺戮戦となった「比叡山延暦寺焼き討ち」が信長の手によって行われました。 僧侶、学僧、上人、女性、子供に至るまで数千人(信長公記)、3000~4000人(言継卿記)、2000人(ルイスフロイス日記)が殺されたと言います。 この引き金とも言える原因となったのが、今回の合戦(籠城戦)「志賀の陣」なのです。 前年の1570年(元亀元年)9月16日から12月17日の間に行われた「織田信長」vs「浅井・朝倉連合軍」の戦い『志賀の陣』を紐解いてまいります。 志賀の陣 戦い背景 1570年(元亀元年)9月13日夜、信長が畿内摂津(大阪)で三好三人衆(野田城・福島城の戦い)と対戦していた頃、中立であったはずの石山本願寺「顕如」が突然「三好三人衆」に加担し、信長軍へ鉄砲を撃ちかけてきました。(信長公記) 実は、本願寺「顕如」は、9月上旬に「本願寺門徒衆」や「浅井長政」「朝倉義景」に「檄文(げきぶん)」を送り、反信長体制を敷くようにと密書を送っていたのです。 その「檄文」がこれ! この檄文に呼応し蜂起したのが「浅井長政・朝倉義景」連合軍。 9月16日、信長が畿内に釘付けとなっている隙に、手薄な琵琶湖西岸から南下を開始し、信長を討つべく「京」へ進軍を開始したことにより「志賀の陣」は始まりました。 志賀の陣 合戦図 9月16日、顕如檄文に蜂起した「浅井長政」「朝倉義景」連合軍は、比較的信長軍の手薄な琵琶湖西岸を3万の軍勢で南下します。 宇佐山城主である「森可成(もりよしなり・信長側近森蘭丸の父)」は、1000の将兵で坂本口に出陣して周辺の街道を封鎖し、志賀や穴太に伏兵を配します。 その日(16日)、信長の弟「織田信治(おだのぶはる)」、近江国「青地茂綱(あおじしげつな)」など2000の兵も救援として駆けつけ坂本の守備に加わります。 この日は、浅井・朝倉連合軍と小規模な小競り合いがあり幾人の首を獲る勝利を収めたものの、3日後の19日、顕如の要請を受けた坂本里坊や延暦寺の僧兵達も加わった「浅井・朝倉」3万を超す兵から挟み撃ちを受け、「森可成」「織田信治」「青地茂綱」は奮戦するも討死することになります。(宇佐山城の戦い)