【本圀寺の変】三好三人衆の逆襲!「足利義昭」を暗殺せよ!

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三好三人衆の逆襲!

室町幕府15代将軍「足利義昭」を暗殺せよ!

1568年(永禄11年)10月2日、信長の畿内平定の締めくくりとなった「池田城攻め」池田勝正の降伏とともに開城されました。

第15代将軍「足利義昭」

これにより畿内は信長によって支配体制が敷かれ、同月22日には晴れて足利義昭が正式に「室町幕府15代征夷代将軍」に任命されることになりました。

しかし、翌年1569年(永禄12年)1月5日、阿波から堺に忍び込んでいた「三好三人衆」が、信長が美濃(岐阜城)へ帰国していた隙をつき、美濃を追われていた「斎藤龍興」「長井道利」らと組みし、南方の流浪人を呼び寄せ、将軍「足利義昭」の仮御所となっていた「本圀寺」を急襲します。

三好三人衆といえば、4年前の永禄の変で13代将軍「足利義輝」(義昭兄)を弑逆して「将軍殺し」の異名を持った存在で、今度は15代将軍「足利義昭」を討ち、再び政権の座を狙った襲撃です。

この足利義昭を本圀寺で襲撃したとされる事変が「本圀寺の変」(六条合戦)と言われています。

本圀寺の変 場所 地図 アクセス

本圀寺は京都市山科区にある、日蓮宗の大本山であり六条門流の祖山です。

本圀寺

本圀寺本尊

本圀寺へのアクセスは、京都駅からJRで山科駅、東西線乗換で「御陵」下車、徒歩10分位です。

本圀寺アクセス

京都東に位置しています。左に京都駅 右が本圀寺

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本圀寺の変 織田軍vs三好三人衆 布陣 戦力比較

1568年(永禄11年)10月22日に「足利義昭」の将軍任命が行われ畿内を平定した信長ですが、これで「しばらくは安泰」とでも思ったのでしょうか、本圀寺の警護「明智光秀」らの近江・若狭衆に任せ、10月下旬には本国である岐阜(城)へ帰国しています。

この機を狙っていたのか、手薄になった京を三好三人衆は、美濃を追われた斉藤龍興や南方の流浪人を集め(約1万)、13代将軍足利義輝を弑逆した時のように、再び政権を取り戻すために15代将軍「足利義昭」のいる本圀寺を襲撃します。

本圀寺の変 合戦図

1569年(永禄12年)正月5日、三好勢は約1万の兵で本圀寺を囲み、先方を「薬師寺九郎左衛門貞春(やくしじくろうさえもんさだはる)」を大将とし襲撃します。

一方、守備方の信長軍は「明智光秀」以下、近江、若狭国衆2000余り。軍勢では不利な状況です。

しかし、数では劣る信長軍ですが、若狭の国衆であった「山県盛信(やまがたもりのぶ)」「宇野弥七(うのやしち)」らの奮戦もあり、三好軍の本圀寺への侵入を持ち堪え、その日は日暮れとなりサスペンデット、戦いは翌日へ持ち込まれます。

兵力差

【織田軍】 【三好軍
2000 10000

戦闘目的

【織田軍】 【三好軍】
襲撃阻止 足利義昭暗殺

主な参戦武将

【織田軍】 【三好軍】
足利義昭・明智光秀・三好義継・細川藤孝・伊丹親興・池田勝正・荒木村重・山県盛信・宇野弥七 他 三好政康・三好長逸・岩成友通・斎藤龍興・小笠原信定 他

本圀寺の変 合戦の行方

わずか2000の兵で、1万を超える三好軍の攻撃を持ち堪えた信長軍。

*(信長が岐阜でこの報せを聞いたのは6日(襲撃の翌日)。岐阜はその日は大雪でしたが、信長はただちに救援に出立し、通常3日かかる行程を2日で駆け付けます。)

一歩本圀寺では、夜が明けるとともに、信長軍の援軍が到着します。

「細川藤孝」「三好義継」摂津国「伊丹親興」「池田勝正」「荒木村重」らが援軍に駆け付け、本圀寺を囲む三好勢に攻撃します。

一気に形勢逆転となった信長軍、三好勢はじりじりと押され、退却を余儀なくされます。

そして桂川河畔まできたところで、織田軍と三好軍はついに激突し、三好方の「小笠原信定(おがさわらのぶさだ)」を討ち取り、信長軍の勝利となりました。

討死武将

【信長軍】 【三好軍】
不明 小笠原信定 他

本圀寺の変 結果

1569年(永禄12年)正月5日、三好三人衆の1万を超す兵で政権奪還を狙った襲撃も、「明智光秀」や近江・若狭衆の奮闘もあり、なんとか持ち堪えた信長軍。

翌日6日には畿内の援軍らも駆けつけ、桂川河畔で一気にケリをつけ、見事勝利しました。

三好方の「小笠原信定」討ち取られ、三好三人衆の本圀寺への政権奪還襲撃は失敗となり、信長の勝利となりました。

【信長軍】 【三好軍】
若狭衆の奮闘と援軍により形勢逆転 信長の援軍により力負け
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本圀寺の変 まとめ

三好三人衆の政権奪還作戦であったこの事変は、信長軍の奮闘と援軍によって、三好軍を打ち破ることができました。

これも信長が畿内を平定してたことで、援軍が通常より容易であったため戦の形成(勝負の行方)が信長軍に有利に向いた戦いだったと言えるでしょう。

その後信長は、堺の会合衆が、この戦の際に三好三人衆へ加担したという事を理由に、野戦*2万貫を要求し自治権を剥奪し支配下に置きました。

*野戦2万貫:主に戦や防衛のために使われる費用、現在の価値で約20億円弱。

 

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2 件のコメント

  • 明智光秀はこの時は足利義昭の奉公衆でした。
    この翌年頃、山城の久世庄を拝領していますね。

    • コメントありがとうございます。
      「本圀寺の変」は光秀が出世した合戦でもありました。
      当時の光秀は、信長さえ良く分からない「鉄砲」に長けており名手と言われていました。
      信長が光秀を、その後重用していくのも分かります。
      歴史に初めて光秀の名前が出たのも、この変から2か月の触書からでした。

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