信長、みずから進軍!
1568年(永禄11年)9月26日、「足利義昭」とともに入京した信長ですが、休む間もなく2日後には畿内の「三好三人衆」討伐に出陣しました。
その後、「勝龍寺城」「芥川山城」を落とし滝山・小清水・伊丹の城も戦わずして開城させ、三好三人衆を阿波へと追い払い、畿内をほぼ制圧した信長でしたが、唯一抗戦していたのが池田勝正が守る「池田城」でした。
織田信長の上洛後、「三好三人衆」討伐の際、回りの支城が降る中、唯一抵抗したため信長自ら進軍した合戦を「池田城攻め」と言います。
池田城の戦い 場所 地図
現在の大阪府池田市五月山南麓の丘陵地にあり、現在は「城址の歴史を感じられる憩いの場」として城址公園として整備されています。
池田城攻め 織田信長vs池田勝正 布陣 戦力比較
1568年(永禄11年)9月26日、信長が足利義昭を奉じ上洛後、当時畿内を治めていた「三好三人衆」の討伐のため、大軍勢を率い進軍しました。
池田城攻め 合戦図
5万を超える信長の軍勢の前に、三好三人衆の岩成友通の「勝龍寺城」、三好長逸の「芥川山城」が陥落し、回りの諸城も降る中、唯一最後まで抗戦したのが、池田勝正の「池田城」です。
当時の池田勝正は、1563年(永禄6年・合戦の5年前)に前当主の「池田長正」の死去によって摂津池田家惣領として家督を継いでいました。
池田長正の嫡男ではなかったものの、幼いころから文武に秀でており池田家の当主となりました。
その「池田勝正」は合戦当時31歳、勇猛果敢な豪傑の武将として名を知られている存在でした。
兵力差
【織田軍】 | 【池田勝正軍】 | ||
50000 | 不明 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【池田勝正軍】 | ||
三好三人衆討伐 | 阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【池田勝正軍】 | ||
織田信長・水野信元・梶川高秀・魚住隼人 他 | 池田勝正・荒木村重 他 |
池田城攻め 合戦の行方
三好三人衆の一人、三好長逸が守る「芥川山城」が陥落した9月29日、信長は唯一抵抗している「池田城」の池田勝正を攻撃するために、10月2日に信長自ら池田城に進軍します。
士気の上がる信長軍の軍勢が城内に切り込んでいくものの、総じて敵兵と白兵戦となり、信長方の「梶川高秀(かじかわたかひで)」が腰骨を突かれて討死します。
一瞬ひるむ信長軍に、さらに追い打ちをかける池田軍。
桶狭間の戦いで従軍し、信長に首級を上げるほどの猛兵である「魚住隼人(うおずみはやと)」も槍を受け負傷し退却を余儀なくされます。
討死武将
【信長軍】 | 【池田勝正軍】 | ||
梶川高秀 他 | 不明 |
池田城攻め 結果
1568年(永禄11年)10月2日、三好三人衆討伐で唯一抵抗していた池田勝正が守る「池田城攻め」は、織田方の「梶川高秀」が討死し、「魚住隼人」も負傷し押されながらも、信長軍の圧倒的軍勢(5万)により多勢に無勢、やがては決着がつき信長の勝利に終わります。
【信長軍】 | 【池田勝正軍】 | ||
圧倒的多数の軍勢により勝利 | 多勢に無勢 |
池田城攻め まとめ
1568年(永禄11年)10月2日、信長は池田勝正の「池田城」を圧倒的な軍勢差によって陥落させました。
その後信長は、摂津国の名家でもある池田勝正の能力を高く評価し、抵抗に対するお咎めをしないどころか加増(6万石)の上で領地安堵となります。参考:織田武鑑
その上、池田勝正・伊丹親興・和田惟政の3人を「摂津三守護」として摂津国安定を図ります。
これによって畿内は、山城に「細川藤孝(ほそかわふじたか)」、摂津に「和田惟政(わだこれまさ)・池田勝正・伊丹忠親(いたみただちか)」、河内に「三好義継(みよしよしつぐ)・畠山高政(はたやまたかまさ)」、大和に「松永久秀(まつながひさひで)」を配し、「池田城攻め」の勝利によって、三好三人衆が牛耳っていた畿内は、信長によって支配体制が敷かれることになりました。
信長の戦いは続く…。次なる合戦は…?
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