織田信長

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【吉良大浜の戦い】大うつけ信長 14歳 初陣!

「初陣」 「初陣」 生まれて初めて戦いに出ること。 また、スポーツ競技などで初めて試合や競技会に出ることをいう。 戦国武将「織田信長」の初陣は14歳。 現代で言えば中学生ですが、戦国の世であれば14歳で初陣というのは決して遅くはありません。 わずか14歳の若者が大勢の家臣を従い、どのように初陣を飾ったのか…。 信長の初陣「吉良大浜攻撃」をお伝えしてまいります。 吉良大浜攻撃 信長 初陣図 1547年(天文16年)、駿河今川勢(今川義元)が尾張領へと侵攻してきたため、当時の領主「織田信秀(信長父)」は牽制の意味から出陣をしたもとの考えられています。 その時、大将として初陣を飾ったのが「織田信長」若干14歳。 前年に元服を済ませたばかりの、(当時は)弱小大名の倅にすぎませんでした。 初陣した時の姿が「信長初陣図」がコレ! 信長の傳役(もりやく)であった「平手政秀」が揃えたと言われています。 信長公記に「紅筋が入った頭巾と馬乗りの羽織、馬鎧という出で立ち」とされています。 吉良大浜攻撃 場所 合戦図 信長が出撃した「吉良大浜攻撃」の場所は、現在でいう愛知県碧南市(名古屋市内からおよそ50km)にあります。(参考:グーグルマップ) 場所は吉良(現在の西尾市)から大浜(現在の碧南市)。 居城の那古野城から片道約50km(往復約100km)の行軍でした。 吉良大浜攻撃 戦力比較 では、当時の織田軍(信長)と今川軍(今川義元配下)の戦力差はどうだったのでしょうか。 当時の戦力比較を見てまいりましょう。 兵力差 【織田軍】 【今川軍】 800 2000 戦闘目的 【織田軍】 【今川軍】 牽制攻撃 尾張三河威嚇 主な参戦武将 【織田軍】 【今川軍】 織田信長・平手政秀・林通勝 不明 吉良大浜攻撃 戦況 今川勢(今川義元)の尾張三河への威嚇侵攻に対し、織田信秀は牽制の意味から吉良・大浜を攻撃します。 兵力は劣勢のため「平手政秀」「林通勝」ら宿老は反対したといわれていますが、信長は風の強い日を見計らって攻撃に出ます。 14歳の信長は800の兵を率いて那古野城から片道50kmを一気に吉良・大浜にまで下り「火を放ち」、その日は野営をして那古野城まで戻っています。
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【姉川の戦い】血で血を洗った合戦とは?合戦の布陣や経緯・場所をかんたん解説!長政とお市のその後…?

血で血を洗った合戦! 1570年(永禄10年)「姉川の戦い」。 「織田(信長)・徳川(家康)軍」と「浅井(長政)・朝倉(義景)軍」が戦った合戦です。 合戦場となった姉川が、兵たちの赤い血で真っ赤に染まったと言います。 浅井家と言えば、織田信長の妹「お市」が嫁いだ名家でもあります。 義弟はあの「浅井長政」。 「お市」と「長政」は仲睦まじい夫婦と言われ、幸せな時を過ごし1男3女を授かります。 しかしながら、信長にとって自分の妹が嫁いだ相手となぜ合戦を…? 合戦の原因や経緯、その後のお市・長政がどうなったのか解説してまいります。 姉川の戦いをわかりやすく 事の始まりは「袋の鼠」 姉川の戦いがはじまる以前、織田家と浅井家は信長の妹「お市」が嫁いでいることもあり「同盟関係」にありました。 同様に、浅井家は朝倉家とは信長と同盟を結ぶ以前に「同盟」(主従関係)を結んでいました。 当時の信長は、室町幕府が衰退し信長が幕府の守護となっていたたため、朝倉義景への上洛の命を出し臣下の意を表させようと画策していましたが、義景はそれをずっと無視していました。 幾度の上洛の命を出す信長と、それを無視し続ける義景、信長と義景の関係は一触即発の状態でした。 実は、浅井と朝倉が同盟を結んだ後から、同盟関係を結んだ信長と長政ですが、同盟の際には「朝倉と戦をしない」という約束が交わされていました。 しかし、朝倉への再三の上洛にも無視を続ける義景に、ついに堪忍袋が切れ、信長は長政との約束を破り兵を上げます。 朝倉と金ケ崎城で対峙する中、長政は朝倉義景から援軍を出すように言われます。 織田家(信長)と朝倉家(義景)の両方と同盟を結んでいる浅井家(長政)は、考えに考えた末、信長との同盟を解消し、朝倉側に援軍を出す事を決意します。(信長と決別) そして信長が朝倉軍と対峙している「背後」へ兵を出すのです。 信長は、前方に朝倉、背後に浅井と、完全に挟まれてしまい「袋の鼠」となってしまい撤退を余儀なくされます。 殿(しんがり)に木下(羽柴)秀吉、明智光秀を残し、数騎の共を連れ添っただけで命からがら京都へ逃げ帰ったというのです。(金ケ崎退き口) このことが後に信長の怒りを買うことになり、「姉川の戦い」へと進んでいくことになるのです。 姉川の戦い 場所 地図 アクセス
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【長篠の戦い】とは?長篠・設楽原の場所で鉄砲三段撃ちで大勝利!「織田徳川軍vs武田騎馬軍」の攻防! 

織田・徳川連合軍vs武田勝頼 鉄炮・馬房柵vs武田騎馬軍 織田信長最大の強敵「武田軍」。 武田信玄はもはや2年前に亡くなっているものの、信長にとって「武田軍」の強さは脅威です! 織田・徳川にとって三河以東の憂いは未だ無くなっていません。 その要城である「長篠城」は、徳川側の「奥平貞昌」がわずか500の兵で守られていました。 そこへ、「武田軍(武田勝頼)」が1575年(天正3年)5月1日に、1万5000の兵で長篠城奪還に取り掛かります。 「武田家」存亡を大きく揺るがせた「長篠の戦い」。 早速紐解いてまいりましょう。 長篠の戦い 場所 地図 アクセス 長篠の戦い合戦場は、現在の愛知県新城市八束穂辺り一帯となります。 アクセスは、車で新東名「新城IC」降りて約2kmほどです。 長篠の戦い 織田・徳川vs武田軍 布陣 戦力比較 織田・徳川軍 武田軍 兵力差 【織田。徳川軍】 【武田軍】 3万8000 1万5000 戦闘目的 【織田・徳川軍】 【武田軍】 武田軍侵攻阻止 尾張・三河侵攻 主な参戦武将 【織田・徳川軍】 【武田軍】 織田信長・織田信忠・河尻秀隆・柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・佐久間信盛・滝川一益・水野信元・金森長親・前田利家 徳川家康・松平信康・石川数正。本田忠勝・榊原康政・鳥居元忠・大久保忠世・酒井忠次 他 武田勝頼・武田信兼・小山田信茂・穴山梅雪・馬場信春・山形昌景・内藤昌豊・原昌胤・真田信綱・真田昌輝・山本勘蔵 他 討死武将 【織田軍】 【今川軍】 鳥居強右衛門・松平伊忠・佐脇刀弥太夫 山形昌景・馬場信春・内藤昌豊・原昌胤・真田信綱・真田昌輝・土屋昌次・山本勘蔵 長篠の戦い 布陣 「鉄砲」の使用が大きな勝敗を分けたと言われる「長篠の戦い」。 上記の図は「長篠合戦図屏風」です。 真ん中の細い川(連吾川)を挟んで、「織田徳川軍」と「武田軍」が対峙しているのが分かります。 右側の川が二俣に分かれている上部が「長篠城」です。(連吾川の左側には馬防柵があります。復元有) 5月1日に「武田軍」の長篠城侵攻が開始され、5月中旬には「長篠城」は陥落寸前に陥ります。 長篠の戦い 落城寸前!「鳥居強右衛門」が援軍を求めに…
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【本能寺の変】真実!なぜ光秀は信長を討ったのか…真相‼

1582年(天正10年)6月2日早暁。 本能寺の外から聞こえるざわめきに、信長は丁度、自らの顔と身体を拭いたところだった。 町衆が喧嘩でもしているのか…、と思っているうちに「鬨の声」が上がり、渇いた「鉄砲」の音が鳴り響いた! パァ~~~ン 信長が「本能寺」で明智光秀の謀反を知った時の、森蘭丸と交わした会話です。 「是非に及ばず(やむおえない)(しかたがない)」 この言葉は信長が最後に発した言葉として有名ですね。 わずか50余の供回りしかおらず、明智光秀が1万3000の兵で「信長」を襲った、「本能寺の変」! しかし、「本能寺の変」の原因は、その後ずっと議論が続けられるものの真相は分かっておりません。 明智光秀の怨恨説や野望説、信長の油断が招いた油断偶発説、光秀を陰で動かした朝廷や足利義昭、秀吉、家康、毛利などの黒幕説まで、話題が尽きません。 このコーナーでは「本能寺の変」の定説となっている「信長公記(大田牛一)」の史実(記録)を基に、明智光秀の「怨恨野望説」に焦点を当て取り上げてみました。 光秀は、なぜ信長に謀反を起こそうと思ったのか…? 光秀は、その時、何を考えたのか…? 光秀が信長を討った「行動の謎」を紐解いてまいります。 本能寺の変 真実 光秀は信長の性格に耐えられなかった…? 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス(信長) 鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス(秀吉) 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス(家康) これは信長・秀吉・家康になぞらえた川柳です。 信長の性格は、秀吉や家康と違い、自分の意に反するものは「すべて殺してしまえ」という、短気で荒々しい性格と言えます。信長が、なぜ「殺してしまえ」という表現を用いられているのかについては歴史を紐解くと明らかになります。 戦国時代、弱いものが強いものの方へなびくことは当たり前の世の中で、「裏切り」や「謀反」は日常茶飯事(世の常)でもありました。 特に信長は、自分に反旗を挙げた「浅井長政」(姉川の戦い・小谷城攻め)、「松永久秀」(信貴山城攻め)、「荒木村重」(有岡城の戦い)では、後の戦いで本人はおろか、妻・子供関係するものすべてを殺し、家もろともすべて滅亡させています。(村重のみ後に出家、妻子は磔斬首)
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【桶狭間の戦い】の真実をわかりやすく解説!わずか10分の1兵力で義元討ち取る!信長、奇襲成功⁉

織田信長軍2,000vs今川義元軍20,000‼ 信長、絶体絶命! 1560年(永禄3年)わずか2千の兵で、2万の大軍を打ち破った奇襲戦、「桶狭間の戦い」! 尾張の弱小大名、若干27歳の「織田信長」が、駿河国の今川家大将「今川義元」を打ち取った戦いです。 この戦いによって、「織田信長」という新しいヒーローが、戦国の表舞台に立つことになります。 上洛へと動いた今川義元 1560年(永禄3年)5月12日、今川義元は上洛のため総勢2万を超える大軍を率い駿府を出立、東海道を西進します。 行く先々には、今川義元の行く手を阻む、戦国の大名がひしめきます。 尾張の「織田信長」をはじめ、美濃「斎藤道三」、北近江「浅井長政」、南近江「六角義賢」と上洛ルートには名だたる戦国武将が立ちはだかります。 しかし、その中でも最小最弱といわれた信長。 義元の領国から比べれば、信長の持つ尾張の領土は、石高も兵力も10分の1以下。 どう見ても、信長が適うような相手ではありませんでした。 5月17日、三河「沓掛城」に入った今川軍は、「松平元康(徳川家康)」を先鋒に、5月18日「大高城」に兵糧を届けさせた後に、織田軍の砦である「丸根砦」「鷲津砦」の攻撃を命じます。 桶狭間の戦い 追い詰められた信長…。 清州城でこの報せを聞いた信長。 ついに今川軍が尾張領内に進軍して来るとの報せに、立ったまま湯付けをかきこみ、翌日の午前4時に鎧具足を付けて出陣します。 あまりの急な出陣の要請に付き従ったのは、わずか数名の小姓衆だけでした。 桶狭間の戦い 場所 現在 地図 アクセス 桶狭間の戦いの場所は、現在の愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目にあり、、現在は「桶狭間古戦場公園」となって市民の憩いの場になっています。 名鉄「名古屋」駅から、名鉄「有松」駅で下車(約20分)。 市バスにて「幕山(桶狭間古戦場公園)」バス停下車(約5~6分)、徒歩約2分です。 名古屋第二環状自動車道「有松インター」より約5分程で着きます。 桶狭間の戦い 信長vs義元 兵力(人数)比較 織田軍 今川軍 兵力差 【織田軍】 【今川軍】 2000 2万5000 戦闘目的 【織田軍】 【今川軍】 尾張防衛 野戦 西上(上洛) 侵攻 野戦 主な参戦武将 【織田軍】
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【戦国時代の勢力図】織田信長から秀吉・家康まで年代別の勢力相関図!

戦国時代の勢力相関図! 信長から秀吉・家康までの戦国の勢力変遷! 今からおよそ400年から500年ほど前(15世紀末から16世紀末)、日本では多くの英雄や豪傑たちが各地に勢力を張り、互いに対立し「覇」を競い合う群雄割拠の世の中でした。 「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」の3人も、その中の一人でした。 「合戦」が日本各地で起こり、多くの戦国武将たちは権力争い・領国侵攻が日々のように行われ、誰もが天下を手中にと狙う中、この信長、秀吉、家康の3人は戦国の世の「覇者」となっていきます。 いったいどのようにして「天下の覇者」となっていったのか…。 「信長」「秀吉」「家康」が戦った時代を通じ、天下統一への勢力変遷を見てまいりましょう。 信長・秀吉・家康の戦国時代の勢力図と変遷 では、実際に天下統一までの勢力がどのように変遷していったのか、時系列でみてまいりましょう。 【1534年信長誕生!】 織田信長(赤の勢力)が誕生した当時(1534年)は、まさに群雄割拠の時代で、名だたる家柄の武将(上杉・北条・武田・今川・松平・細川)達の勢力もほとんど同じで均衡しています。 まわりの有力大名の勢力からすれば、当時の「織田家」は地方の小領主(弱小大名)にすぎません。 (この時は、まだ「秀吉」も「家康」も誕生していませんが、後の1537年に秀吉、1543年に家康が誕生します) 【1560年信長(27歳)が桶狭間で今川義元を討った頃の勢力図】 1560年、織田信長(赤)が今川義元(黄)を討った当時は、織田家の勢力はまだ小さな小領主です。 しかしこの戦い(桶狭間の戦い)で一躍、天下争いのレースに躍り出た格好になりました。 当時の勢力では、越後の長尾(上杉謙信)、関州の北条、甲斐の武田、中国の毛利の勢力が台頭を現わしてきたようです。 「桶狭間の戦い(1560年)」当時の秀吉は織田側にて足軽、家康は今川側にて先鋒隊を務めていました。 【1573年信長が足利義昭を追放し室町幕府崩壊】 1573年、「槇島城の戦い」で、将軍足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡します。 この頃の織田領は、越前・近江・近畿を中心とした勢力(赤い部分)ですが、周りをぐるりと「反信長派」に囲まれ、信長が最も「戦い」に忙しい時期でもありました。
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「織田信長」について!全合戦・年表一覧!

戦国史上、最大の天才といわれ革命家でもあった「織田信長」。 数多い戦国武将の中でも人気ナンバーワンであり、その魅力は未だに語り継がれ、現代の人々の心をひきつけます。 今から450年ほど前のこと、信長が生きた安土桃山時代(1573~1603)は群雄割拠の戦国時代。 信長が戦った「全合戦」をご案内してまいりましょう。 織田信長 城 生誕地 信長は尾張国古渡城・織田信秀の嫡男(三男)として1534年誕生しました。 母は正室「土田御前」、幼名は「吉法師」と名乗り、信長が乳飲み子の時から何人もの乳母の乳首を食いちぎったとされ、すでにこの頃から「うつけ」ぶりが見られます。 生誕地は諸説あり、「那古野城(現名古屋城)」もしくは「勝幡城」と言われています。 当時の那古野城は現在の名古屋城(二の丸)に当たり、勝幡城は名古屋の西方(稲沢市平和町)にあり、城郭などは存在しておらず勝幡城址として残っています。 信長が生まれる2年前の1532年、父信秀が今川氏豊(今川家)の那古野城を攻め落とし、2年後の1534年に信長が生まれたので生誕地は「那古野城」とされていたのが古くからの定説でした。 しかし公家の山科言継(ときつぐ)の日記「言継卿記」に、1533年7月に「勝幡城」にいる織田信秀に招待され、その時に那古野城の竹王丸(今川氏豊)と面会した、という記述が見つかり、長年定説とされてきた生誕地=那古野城という説が崩れ、信長は翌年の1534年5月に生まれたということから「勝幡城」説が現在では有力となっています。(photo:国立国会図書館) 織田信長 家紋 織田信長の家紋といえば有名なのがこの「木瓜紋」。 由来は胡瓜の断面や花の形から案出されたという説があり、形が卵の入った鳥の巣を上から見た形に似ていることから、今後さらに卵が増え子孫に繋がるようにと「子孫繁栄」の意味で使われることが多いといわれています。 木瓜紋は外葉の数により、三瓜、四瓜、五瓜、六瓜と数種あり、織田家は五瓜に当たります。 もっこうと 呼ばれてきたのは、多くの神社の御簾の帽額(もこう)に使われた文様だからといいます。 もともと公家が使っていた有職文様の一つでしたが、御簾や牛車に使われるようになり、しだいに家紋としても使われるようになりました。 織田信長 肖像画
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