【桶狭間の戦い】の真実をわかりやすく解説!わずか10分の1兵力で義元討ち取る!信長、奇襲成功⁉
織田信長軍2,000vs今川義元軍20,000‼ 信長、絶体絶命! 1560年(永禄3年)わずか2千の兵で、2万の大軍を打ち破った奇襲戦、「桶狭間の戦い」! 尾張の弱小大名、若干27歳の「織田信長」が、駿河国の今川家大将「今川義元」を打ち取った戦いです。 この戦いによって、「織田信長」という新しいヒーローが、戦国の表舞台に立つことになります。 上洛へと動いた今川義元 1560年(永禄3年)5月12日、今川義元は上洛のため総勢2万を超える大軍を率い駿府を出立、東海道を西進します。 行く先々には、今川義元の行く手を阻む、戦国の大名がひしめきます。 尾張の「織田信長」をはじめ、美濃「斎藤道三」、北近江「浅井長政」、南近江「六角義賢」と上洛ルートには名だたる戦国武将が立ちはだかります。 しかし、その中でも最小最弱といわれた信長。 義元の領国から比べれば、信長の持つ尾張の領土は、石高も兵力も10分の1以下。 どう見ても、信長が適うような相手ではありませんでした。 5月17日、三河「沓掛城」に入った今川軍は、「松平元康(徳川家康)」を先鋒に、5月18日「大高城」に兵糧を届けさせた後に、織田軍の砦である「丸根砦」「鷲津砦」の攻撃を命じます。 桶狭間の戦い 追い詰められた信長…。 清州城でこの報せを聞いた信長。 ついに今川軍が尾張領内に進軍して来るとの報せに、立ったまま湯付けをかきこみ、翌日の午前4時に鎧具足を付けて出陣します。 あまりの急な出陣の要請に付き従ったのは、わずか数名の小姓衆だけでした。 桶狭間の戦い 場所 現在 地図 アクセス 桶狭間の戦いの場所は、現在の愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目にあり、、現在は「桶狭間古戦場公園」となって市民の憩いの場になっています。 名鉄「名古屋」駅から、名鉄「有松」駅で下車(約20分)。 市バスにて「幕山(桶狭間古戦場公園)」バス停下車(約5~6分)、徒歩約2分です。 名古屋第二環状自動車道「有松インター」より約5分程で着きます。 桶狭間の戦い 信長vs義元 兵力(人数)比較 織田軍 今川軍 兵力差 【織田軍】 【今川軍】 2000 2万5000 戦闘目的 【織田軍】 【今川軍】 尾張防衛 野戦 西上(上洛) 侵攻 野戦 主な参戦武将 【織田軍】
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