毛利(村上)水軍に勝る船団…‼
巨大戦艦初お披露目!
【淡輪沖海戦】
【いきさつ】
1576年(天正4年)7月、第一次木津川口の戦いで、毛利(村上)水軍の前に大敗を喫していた信長。
その後、織田軍の水軍家臣である「九鬼嘉隆」に、毛利(村上)水軍に対抗する巨大船の造船を命じていました。
2年後の1578年(天正6年)6月、九鬼嘉隆率いる「巨大鉄甲船」6隻と、滝川一益率いる「白大船」1隻が、伊勢大湊で完成しました。
20日、伊勢大湊を出航、熊野灘から大坂・堺港を目指す船団を見た「雑賀衆」は、あまりの(船の)大きさに驚き、すぐさま入港を阻止すべく船団を組み、淡輪沖で攻撃を仕掛けます。
そして開戦となったのが「淡輪沖海戦」と言われています。
淡輪沖海戦 場所 アクセス
淡輪沖は、現在の大阪府泉南郡岬町淡輪の海域となります。
当時は堺港に向かう海上交通の要所でもあり、主に和歌山や熊野、伊勢からの物資を運ぶ交通船路となっていました。
巨大鉄甲船とは
巨大鉄甲船の存在は、「信長公記」「多聞院日記」「ルイスフロイス書」などに見られますが、詳細は明らかにされていません。
数問の「大砲」を持ち、巨大さゆえに小回りは出来なかったという事です。
【寸法】
『多聞院日記』:長さ12~13間(21.8m~23.6m)、幅7間(12.7m)。
【装甲】
『多聞院日記』:「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」本船は船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍が得意とした焙烙火矢に対抗のため装甲した。
【乗員】
『多聞院日記』:人数五千人程のる。
『信長公記』:九鬼嘉隆が6隻建造した。
5000人とは6隻の合計人数であり、1隻当たり800人強であるとする説もあり。
【動力】
通常の「安宅船」と同じく艪、および起倒式の木綿帆によるものと推定されている。
仮に鉄張り装甲を施していた場合、重量を増した船がこの方式で実用に耐えうる速度で航行できるかは不明。
淡輪沖海戦 織田軍vs雑賀衆軍他 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【雑賀衆軍他】 | ||
大型船7隻 | 数百 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【雑賀衆軍他】 | ||
本願寺補給海上封鎖 | 補給路封鎖阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【雑賀衆軍他】 | ||
九鬼嘉隆・滝川一益 他 | 不明 他 |
合戦のゆくえ
6月26日、九鬼嘉隆率いる巨大船団が淡輪沖を航行中、これを目撃した雑賀衆は、淡輪の浦々から水軍が出航、堺港入り阻止のため攻撃を仕掛けてきます。
雑賀方の水軍は小型船で、そこから鉄砲や矢を打ちかけてきますが、織田の巨大船団はビクともせず、悠々と通り過ぎ、射程圏内まで十分引き付けてから一斉に打つ「大砲」の威力は、雑賀衆の船団を一気に粉砕します。
巨大鉄甲船の大きさと大砲のごう音により、なすすべもない雑賀衆船団は総崩れとなり、退却を余儀なくされます。
7月17日織田水軍は、「堺港」に入港し、この巨大船を見物した多くの者は仰天したと言われます。
翌日には「大坂湾」へ入り、補給路となっている要所に配備、これにより本願寺への補給路は完全に断たれることになりました。
討死武将
【織田軍】 | 【雑賀衆軍他】 | ||
不明 | 不明 |
【織田軍】 | 【雑賀衆軍他】 | ||
鉄甲船の威力発揮 | 鉄甲船の威力に完敗 |
淡輪沖海戦 その後 まとめ
第一次木津川口の戦いで、毛利(村上)水軍に敗れてから2年後、信長は「巨大鉄甲船」という日本で初めての戦艦を造船しました。
その威力は、毛利水軍の得意とした「焙烙(ほうろく)」(火薬をつめた爆弾)や「火矢(ひや)」(矢の先に火を付けて射る)が、まるで通用しない、鉄で覆われた巨大な船でした。
織田軍にとってこの戦いは、ほんの小手先の腕試しのようなもので、悠々と大坂湾入りした織田水軍は、毛利水軍へのリベンジとして「第二次木津川口の戦い」へと挑むのでした。
火を噴く巨大鉄甲船!毛利水軍を撃破!信長バトル77【第二次木津川口の戦い】
コメント