【猿啄城攻め】丹羽長秀隊先鋒「河尻秀隆」ここにあり!

信長全合戦

 

信長の美濃攻略戦!

猿啄(さるばみ)城と鵜沼(うぬま)城を落とせ!

1565年(永禄8年)8月、信長は中農攻略のため、犬山城のそばにある「宇留摩(鵜沼)城」攻略を開始したと同時に、「猿啄城」(さるばみじょう)にも着手しています。

宇留摩(鵜沼)城を、織田家で頭角を出し始めた「木下藤吉郎」に、この猿啄城には重臣の「丹羽長秀」に任せます。

この2城(中美濃)を攻略し奪取することで、「稲葉山城」と東美濃の勢力を分断することが、信長の最大の狙いでした。

その2城の内の1つである「猿啄城」での戦を「猿啄城攻め」と言われています。

猿啄城攻め 場所 地図

場所は現在の岐阜県加茂郡坂祝町勝山で木曽川沿いの勝山にあります。

この付近の木曽川は急流であり周辺は谷深い山となっています。当時は飛騨国、東美濃から尾張国への重要な地点でもありました。

現在は展望台が設置されています。宇留摩(鵜沼)城からは北東に3km程の場所。

猿啄城(展望台)

「猿啄城からの風景」参考:みのかも定住自立圏

宇留摩(鵜沼)城:参考wik

小牧山城 信長

猿啄城攻め 織田信長vs多治見修理 布陣 戦力比較

信長の中農攻略2城の内の1つである「猿啄城」攻めを任せられた丹羽長秀。

難攻不落と言われ堅城ではあるものの、飛騨国、東美濃から尾張国への重要な地点でもあり、信長の中農攻略地点としては是が非でも攻め落としたい城です。

合戦図

織田信長覇道の全合戦

木下藤吉郎の「宇留摩(鵜沼)城」攻めと同時に、信長から猿啄城攻めを任された丹羽長秀ですが、堅固な要塞城とされる「猿啄城」に対し策を練ります。

対する猿啄城主「多治見修理」は、堅城の守りをさらに固くし侵攻を容易にさせません。

こうなっては、単に力攻めでは被害甚大も避けられないと考えた長秀は、猿啄城の尾根続きであり猿啄城より高い場所にある「大ぼて山」に上り、猿啄城の給水源を絶つ事を考えます。

河尻鎮吉(秀隆)図

丹羽長秀は、大ぼて山にある猿啄城の給水源を完全に断ち切ったところで、隊の精鋭である「河尻鎮吉(秀隆)」が先鋒に名乗りを挙げます。

「河尻鎮吉(秀孝)」にとってこの戦いは、斉藤道三に追われ「大桑の戦い」で父重親が討死した、斉藤方へ対する弔い合戦でもあったのです。

先鋒に命じられた「河尻鎮吉(秀孝)」は、一気果敢に猿啄城に攻め込みます。

兵力差

【織田信長軍】 【多治見修理軍】
不明 約600

戦闘目的

【織田信長軍】 【多治見修理軍】
中農侵攻

猿啄城攻略

攻略阻止

主な参戦武将

【織田信長軍】 【多治見修理軍】
丹羽長秀・河尻秀隆 他 多治見修理 他

猿啄城攻め 合戦の行方

1565年(永禄8年)8月、中農攻略による「宇留摩城」と同時に「猿啄城」の攻略に取り掛かった信長。

猿啄城攻略を任された「丹羽長秀」は、猿啄城の給水源を絶つことに成功します。

父重親の弔い合戦となった「河尻鎮吉(秀隆)」は一気に攻め上がり、城守である「多治見修理」も奮闘善戦しますが「河尻鎮吉(秀隆)」の猛攻には耐えきれず、ついに降伏して城を空け渡します。

その模様を「武功夜話」では次のように記載しています。

「武功夜話」

『信長様御下知、栗巣向う岸大ぶて山に向け、丹羽五郎左衛門に仰せつけらる、美濃方多治見次郎なる者手勢600ばかり、堅固也、川幅およそ5間、渡りに舟無く、大岩に大綱繋ぎ、素肌となりて渡り、城は2町先、聞えれば矢玉の的、綱を頼りに対岸へ、猿啄の城兵は水の手より不意に攻め立てられ慌てふためき大井戸(太田)へ退散也』

討死武将

【織田信長軍】 【多治見修理軍】
不明 不明

猿啄城攻め 結果

1565年(永禄8年)8月、丹羽長秀隊先鋒「河尻鎮吉(秀隆)」の猛攻により、猿啄城「多治見修理」が降伏。

【織田信長軍】 【多治見修理軍】

【勝因】

猿啄城の給水源を占領

【敗因】

給水源の遮断と河尻秀隆の猛攻

猿啄城攻め まとめ

信長の中農攻略戦の一つである「猿啄城攻め」は丹羽長秀隊先鋒の「河尻鎮吉(秀隆)」の猛攻で決着がつき信長側勝利となりましたが、実は「宇留摩(鵜沼)城」「猿啄城」の2城以外に、「美濃金山城(兼山城)」にも着手していました。

手始めに、前線基地となる「伊木山」に砦を築いた信長は約2000の兵で、「宇留摩(鵜沼)城」から「猿啄城」へ攻め上り、別動隊(森可成)を「美濃金山城(兼山城)」にも浸出させ攻略していたのです。

信長の中農侵攻作戦は、2城だけにとどまらず、一気に3つの城を攻略する作戦だったのです。

「猿啄城」攻めに勝利した信長は、その後、猿啄を「勝山」と改名し、合戦で武功を上げた「河尻鎮吉(秀隆)」に城を与え勝山城主としています。

城を空け渡した「多治見修理」はその後、甲斐(武田信玄)へと逃れ、城兵たちは東美濃の堂洞へと逃れていきます。

この合戦で、中美濃の一角を崩し、美濃攻略への光明が見えた信長ですが、この1か月後、信長の侵攻を重く見た斎藤龍興が、堂洞へ付城を築き「堂洞合戦」へ進展していくのです。

 

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