本願寺攻略を前に「荒木村重」が謀反!
黒田官兵衛が幽閉!
秀吉、官兵衛を救え!
【有岡城の戦い】
秀吉の播磨侵攻が順調に行っていた1578年(天正6年)2月、突然、三木城の「別所長治」が離反し毛利方へ与します。
それにより同年7月、毛利より奪い取っていた「上月城」が毛利軍の反撃に合い包囲され、城主「尼子勝久」から援軍を求められます。
当時、播磨攻略の大将であった秀吉は、謀反を起こした「別所長治」討伐のため、援軍を「上月城」に出すことができず、「上月城」は毛利方へ落ちてしまいます。
その矢先、秀吉と「別所長治」討伐に参戦していた有岡城の「荒木村重(あらきむらしげ)」が謀反を起こします。
謀反を起こした理由は諸説ありますが(後述)、謀反を起こした以上、信長軍と合戦となっていったのが「有岡城の戦い」と言います。
サル(秀吉)、別所も、村重も征伐じゃ…!
お館様が怒っとるでぇ~、何とかせにゃ~!
有岡城の戦い 場所 アクセス
有岡城(ありおかじょう)は、現在の兵庫県伊丹市にある城で、別名伊丹城(いたみじょう)とも言われています。
現在は国の史跡に指定されています。
なぜ荒木村重は謀反を起こしたのか…
「上月城」を毛利方より奪い、この先、秀吉の播磨攻略も順調に行くかと思いきや、三木城「別所長治」に続く、有馬城の「荒木村重」も信長に謀反を起こしました。
その理由は諸説ありますが、詳細は本人(村重)しか分からないと言ったところですが、いくらかの諸説をご案内します。
「荒木村重」謀反の原因は、信長の部下に対する苛酷な態度にあったのではないか(田中義成:国史学者)、としています。
村重はもともと池田城主「池田勝正」の家臣でしたが、下剋上で主家を乗っ取り、信長に仕えて37万石の大名になっていました。
「陰徳記」での、村重が兵糧を密かに本願寺へ搬入したとの噂であったり、「武功夜話」では、神吉城の攻城戦で内通者であった神吉貞光は、落城後秀吉に許されるものの、直後に別所長治のもとに走り、秀吉と対することになる事から、貞光と村重は通じており、村重も疑われることになったといいます。
「荒木村重の摂津支配と謀反(天野忠幸)」は、織田政権の下での支配強化の動きに反発する摂津の国人や百姓の間で信長への反抗の動きが急激に高まり、彼らによる下からの突き上げを受けた村重は彼らに排除されるよりも先に彼らに呼応する形で信長との決別を選択した、と言っています。
これらのように、さまざまな憶測があり、荒木村重の真意は分かっていないのが実情です。
信長の動き 村重を説得するも従わず…
荒木村重の謀反により、通常の信長であれば、すぐさま征伐に向かうところですが、「明智光秀」「松井友閑」「万見重元」を使者に向かわせ、また高槻城の「高山右近」も村重の説得に有岡城へ行っています。
一旦は説得に応じたかのように、安土へ向かいますが、「中川清秀」から「安土城に出向くのはもってのほか、安土城に行って切腹させられるより、摂津国で一戦に及ぶべき(立入左京亮入道隆佐記)」と引き止められ、家臣たちから「自分たちは信長につく気はなく、ただちに引き返してこない場合、他の者を領主とする(ルイスフロイス日本史)」と言ってきたといいます。
迷う村重に、時は過ぎ、謀反を起こしてから5か月後の11月、再び信長の使者として「明智光秀」「松井友閑」「羽柴秀吉」が説得に向かいます。
村重は野心はない、と答えますが、信長の人質に母親を差し出せとの命には従わず、亀裂は決定的になります。
この後すぐに、後の秀吉の軍師となる「黒田孝隆(黒田官兵衛)」が、村重の説得に単身有岡城に向かいましたが、そのまま村重によって幽閉されてしまいます。
村重と同盟関係にあった「小寺政職」(毛利方)の手前、捕えて牢獄に閉じ込めてしまったのではないかと言われています。
有岡城の戦い 織田軍vs荒木軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【荒木軍】 | ||
5万 | 1万 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【荒木軍】 | ||
反乱鎮圧 | 阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【荒木軍】 | ||
織田信長・羽柴秀吉・黒田官兵衛・明智光秀・池田恒興 他 | 荒木村重・荒木村次・高山右近・中川清秀 他 |
合戦のゆくえ
11月、再度の「明智光秀」「松井友閑」「羽柴秀吉」らの説得に応じなかった事で、信長との亀裂が決定的となった直後、信長は5万の兵で村重討伐に出陣します。
村重の下に付いていた、高槻城「高山右近」、茨木城「中川清秀」、能勢城「能勢頼道」、(いずれも村重と同じキリシタン)、三田城「荒木重堅」らはすぐに降伏し、信長に帰順。
12月8日、有岡城への本格的な攻撃が始まります。
まず、織田軍の鉄砲隊が城に向かって乱射、次いで弓隊が町を放火。
荒木軍もこれに対抗して反撃し、織田軍も重臣を含め2000人余りの討死者を出してしまいます。
さすがの信長もこれでは負傷者を出すばかりだと、力攻めから「兵糧攻め」へと切り換えます。
サル(秀吉)、兵糧攻めにいたせっ!
12月から始めった兵糧攻めも、10ヶ月が過ぎようとした翌年(1979年天正7年)の9月5日、村重は名物茶器だけを持って、子の村次(むらつぐ)のいる「尼崎城」へと逃亡。
11月19日、信長軍の総攻撃となり、守将「荒木久左衛門」は本丸を開城し合戦は終わりました。
討死武将
【織田軍】 | 【荒木軍軍】 | ||
不明 | 不明 |
【織田軍】 | 【荒木軍】 | ||
村重の逃亡と兵糧攻めで勝利 | 城主村重の逃亡による士気低下 |
黒田官兵衛の土牢
1578年10月、荒木村重を説得するため使者として有岡城に向かった「黒田官兵衛」ですが、荒木村重によって幽閉されてしまいます。
そこは、暗く深い沼地にあり、三方を竹やぶに囲まれ日も差さないような劣悪な環境であったと言います。
1年後に救出されますが、足腰に大きな障害が残ることとなりました。
有岡城の戦い その後 まとめ
戦いは11月19日に終わるものの、本丸には村重の一族や重臣たちの家族がいました。
信長は、逃亡した村重に、一族の助命を条件に、「尼崎城」の引き渡しを求めますが、村重はこれに応じません。
翌月の12月13日、村重が逃亡している「尼崎城」に近い、七松で122名が磔に、512名は焼き殺されました。
村重の妻「たし」をはじめ近衆の36名は、京都の六条河原で斬首となりました。
荒木村重はその後、剃髪し僧侶となり、名前を「道」の「クソ(糞)」と書いて「道糞(どうふん)」と名乗りますが、秀吉が「道薫(どうくん)」と改めさせました。
逃亡してから7年後の1586年(天正14年)5月4日、堺で死去。享年52でした。
戦国武将として生きてきた村重ですが、戦に負けた大将としては、武将に似つかわしくない(敗戦の将は切腹が当たりまえ)、生涯(人生)だったと思います。
「やっぱり、村重さんも、死にたくなかったわよねぇ~(筆者談)」
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