信長、石山本願寺の総仕上げか…⁉
本願寺へ威嚇!
【石山本願寺攻め】
【いきさつ】
1576年(天正4年)7月の「第一次木津川口の戦い」で、毛利水軍の前に成す術もなく、石山本願寺へ救援物資を入れられ敗退した信長。
その後の、「雑賀の陣」では、本願寺と雑賀衆(鉄炮隊)との関係を断ち切れたものの、石山本願寺とは対峙した状態です。
信長の播磨平定の最中、石山本願寺の動向を探るべく、嫡男「信忠」を大将に挑発行為に出ます。
1578年(天正6年)4月4日、信長の石山本願寺への挑発行為となったのが、「石山本願寺攻め」と言います。
石山本願寺 場所 地図 アクセス
石山本願寺は現在の大阪市中央区大坂城付近と言われています。
当時の名称は「大坂本願寺」と言われており、石山本願寺の名称は後世からと言われています。
石山本願寺攻め 信長軍の動き
4月4日、「織田信忠」を大将に、尾張、美濃、伊勢、近江、若狭および5畿内の軍勢で、「織田信雄(のぶかつ)」「織田信孝(のぶたか)」「津田信澄(つだのぶすみ)」「滝川一益(たきがわかずます)」「明智光秀(あけちみつひで)」「蜂屋頼孝(はちやよりたか)」「丹羽長秀(にわながひで)」の軍勢で出陣。
本願寺への威嚇攻撃も目的の一つではありますが、信長の後継者でもある「信忠」への帝王教育と軍事演習も含まれていたのでしょうか、そうそうたる軍勢です。
石山本願寺 織田軍vs本願寺軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【本願寺軍】 | ||
10万以上? | 不明 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【本願寺軍】 | ||
本願寺威嚇 | 様子見 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【本願寺軍】 | ||
織田信忠・織田信雄・織田信孝・津田信澄・滝川一益・明智光秀・蜂屋頼孝・丹羽長秀 他 | 顕如他(籠城) |
石山本願寺 合戦のゆくえ
信忠の軍事演習とはいえ、本願寺の周りを完全に包囲され、10万を超えていたであろう軍勢に、本願寺は籠城するしかありません。
威嚇攻撃のため、実際の合戦まではならないまでも、本願寺周辺の麦畠をことごとく薙ぎ払い丸裸にし、改めて信長軍の強大さを見せつける格好となりました。
討死武将
【織田軍】 | 【本願寺軍】 | ||
不明 | 不明 |
【織田軍】 | 【本願寺軍】 | ||
圧倒的数による勝利 | 静観して籠城するしかなかった |
石山本願寺攻め その後 まとめ
信長の思惑は、本願寺への威嚇であり、信長の強大さを本願寺へ再確認させることにありました。
本願寺周辺の麦畠をすべて焼き払うことによって、兵糧攻めの意味もあったと考えられ、本願寺の完全孤立化を図りました。
しかし、まだこの頃の本願寺は、制海権を有しており、物資の運搬は可能であったと思われますが…。
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