【稲葉山城の戦い】斎藤龍興vs織田信長 稲葉山城ついに陥落!信長、天下統一へ!

信長全合戦

 

難攻不落「稲葉山城」

斎藤道三嫡男「龍興」vs「織田信長」

1560年(永禄3年)に桶狭間「今川義元」を討ち取って依頼、その後美濃制圧に力を注いできた信長ですが、1567年(永禄10年)8月に、ついに「稲葉山城」を包囲します。

攻めては負けを繰り返し、何度も煮え湯を飲まされた要害です。

斎藤龍興

正妻である帰蝶の父であり舅である「斉藤道三」が築城した難攻不落の名城ですが、その道三も嫡男の斉藤義龍に討たれ、その義龍も病死し、今は道三の孫である「斎藤龍興」が城主となっています。

今川義元を討ち取ってから足掛け7年の歳月をかけた、美濃侵攻の最終決戦となった戦い。

信長が天下統一に名乗りを上げた「稲葉山城の戦い」を紐解いてまいりましょう。

稲葉山城の戦い 場所 地図 アクセス

稲葉山城(現在は岐阜城)は岐阜県岐阜市天主閣18にあります。

岐阜長良川沿い金華山の山頂にある山城です。

稲葉山城 現岐阜城

稲葉山城 遠望

稲葉山城から見た様子

航空写真

稲葉山城の戦い 織田信長vs斉藤龍興 布陣 戦力比較

1567年(永禄10年)8月1日、西美濃三人衆と呼ばれた「安藤守就(あんどうもりなり)」「稲葉一鉄(いなばいってつ)」「氏家卜全(うじいえぼくぜん)」が、木下藤吉郎(後の秀吉)の調略もあり、3人揃って信長に帰順の意を表してきました。

東美濃にある宇留摩(鵜沼)城猿啄城堂洞城のそれぞれの合戦で勝利し、美濃国の東半分はすでに制圧していたものの、西美濃の有力豪族である西美濃三人衆には手を焼かされていた信長は、これで美濃の本丸である稲葉山城攻略への道が開けます

稲葉山城の戦い 合戦図

織田信長覇道の全合戦

通常、恭順の意を示した場合、人質を出すのが慣例で三人衆も通例に従い信長に人質を差し出します。

それに対し信長は、「村井貞勝」「島田秀満」を受け取りに向かわせます。

本来であれば、人質受け取った(確認した)後で「事」を起こすものですが、信長は人質が到着する前に、すぐ兵を収集し稲葉山と尾根続きの瑞龍寺山に一気に攻め上がります。

兵力差

【織田信長軍】 【斎藤龍興軍
不明 不明

戦闘目的

【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】
稲葉山城攻略 侵攻阻止

主な参戦武将

【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】
織田信長・木下藤吉郎・柴田勝家・佐久間信盛・安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全 他 斎藤龍興・日根野弘就・長井道利 他

稲葉山城の戦い 合戦の行方

西美濃三人衆が1567年(永禄10年)8月1日に、信長に帰順の意を明らかにしたのを皮切りに、信長軍はすぐさま瑞龍寺山に登ると同時に、城下の井口の街を焼き払い稲葉山城を裸城にしてしまいます。

斉藤龍興 画:落合芳幾

そして翌日には、稲葉山城の四方に鹿垣(ししがき)を築いて稲葉山城を完全に包囲し、斎藤龍興を孤立させることに成功します。

そこへ三人衆が挨拶に訪れ、信長の素早い行動に驚いたと言います。信長は何事もなかったのように言い放ったと言います。

一方、斉藤龍興はいったんは籠城の構えを見せ抵抗したものの、8月15日に降伏し長良川沿いで北伊勢の長島へ逃れたといいます。

討死武将

【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】
不明 不明

稲葉山城の戦い 結果

1567年(永禄10年)8月15日、難攻不落の稲葉山城、斎藤龍興の降伏により念願の美濃統一を達成、信長の勝利。

【織田信長軍】 【斎藤龍興軍】
電光石火の進軍により勝利 信長の急な侵攻により狼狽。

籠城抵抗するも降伏。

稲葉山城の戦い まとめ

1567年(永禄10年)8月1日、西美濃三人衆が信長に帰順の意を示すとともにとともに始まった「稲葉山城の戦い」ですが、信長の電光石火ともいえる奇襲策で城を包囲し、難攻不落だった要害城がわずか15日で陥落しました。

何度も煮え湯を飲まされた稲葉山城でしたが、信長はついにこれを落とし、その後居城を小牧山から、この稲葉山城に移すことになります。

それまで井ノ口と呼ばれた地名を「岐阜」と改め、稲葉山城も「岐阜城」になり、いよいよ信長の天下統一への道が定まったといえます。

一方、降伏し伊勢の長島に逃れた斉藤龍興ですが、一旦は一向一揆衆に匿われますが、その後も信長に抵抗を続け、6年後の1573年(天正元年)6月の「刀根坂の戦い」で討死するまで信長と抗戦を続けました。

 

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