数で圧倒!
このまま一気に押しつぶせ!
半年ほど前(1567年2月)に、滝川一益に命じ北伊勢を侵攻し、桑名・員弁・朝明を制圧した信長。
南美濃の国境であった北伊勢の脅威も無くなり、いよいよ美濃制圧も大詰めを迎えていました。
その年8月信長は、全軍を率い稲葉山城を包囲するとともに、ほぼ同時期に伊勢の「楠城」に侵攻しています。
美濃同様、伊勢をも完全に制圧を目論んでいる信長の奇襲ともいえる合戦といえます。
この合戦も信長の史実として良質の「信長公記」には記述がありませんが、「勢州軍記」にありますので取り上げてみました。(勢州軍記*)
楠城攻め 場所 地図
楠城は現在の三重県四日市市楠町本郷にある「楠村神社」の東側辺りに築かれていました。
辺りは高い建物などはなく、石碑と案内板が建てられ小公園となっています。
楠城攻め 織田軍v楠貞孝 布陣 戦力比較
合戦図
1567年(永禄10年)8月、すでに北伊勢を落としている滝川一益は「桑名城」を拠点に、信長が稲葉山城を攻めるとほぼ同時期に「楠城」を攻めます。(勢州軍記)
守備する楠城の「楠貞孝(くすのきさだたか)」は、北伊勢の豪族たちを束にして攻めてくる織田軍に抵抗の構えを見せます。
兵力差
【織田軍】 | 【楠貞孝軍】 | ||
2~3万 | 不明 |
戦闘目的
【信長軍】 | 【楠貞孝軍】 | ||
伊勢侵攻 | 侵攻阻止 |
主な参戦武将
【信長軍】 | 【楠貞孝軍】 | ||
滝川一益 他 | 楠貞孝 他 |
楠城攻め 合戦の行方
滝川一益は、桑名城を拠点に、周辺の神社や諸城、田畑を焼き払い「楠城」に進行していきます。
守る楠城「楠貞孝」も、一時抵抗を見せるものの、数で圧倒する信長軍の猛攻に押され、やむなく降伏し開城します。(勢州軍記)
しかし、現地の案内版では城主は「楠正具(くすのきまさとも)」とされており、信長には降伏せずに「治田城(はるたじょう)」(三重県いなべ市北勢町奥村)に籠って抗戦し、転戦を繰り返し「石山合戦*」で戦死したとされています。(*石山合戦:1570年元亀元年から1580年天正8年にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い)
また、「紹巴富士見道記(じょうはふじみみちのき)」では、楠城を攻める直前に、一向一揆の国とされる長島付近に放火し一揆衆を刺激しています。
これは信長流でいう、合戦(楠城攻め)の邪魔をしないようクギを刺したと考えられています。
討死武将
【信長軍】 | 【楠貞孝軍】 | ||
不明 | 不明 |
楠城攻め 結果
1567年(永禄10年)8月、楠城「楠貞孝」、信長軍猛攻にあえなく降伏開城。信長勝利。
【信長軍】 | 【楠貞孝軍】 | ||
【勝因】 信長軍の猛攻 |
【敗因】 多勢に無勢 |
楠城攻め まとめ
1567年8月美濃の稲葉山城侵攻とほぼ同時期に始まった「楠城攻め」。
半年前に攻略していた、北伊勢の豪族たちの加勢もあったせいか、城主の「楠貞孝」の抵抗もなく比較的楽に落とせたようです。
この「楠城」攻めの時期には、北勢四十八家の豪族「赤堀・千草・稲生・宇野部」氏らが一戦も交えることなく降伏し、北伊勢の豪族のほとんどが信長軍に編入されています。
稲葉山城攻略と同時期となった「楠城攻め」は、信長の勝利となりましたが、信長はすぐに隣接する「高岡城」への侵攻を滝川一益に命じます。
「高岡城」には地豪族「神戸具盛(かんべとももり)」の重臣であり策士である「山路弾正(やまじだんじょう)」が守ります。
果たして、信長の次なるバトルはどうなっていくのか…。
背後が危ない‼策士「山路弾正」の策略にはまる信長!信長バトル34【高岡城攻め】!
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