【第一次岩村城の戦い】武田信玄との合戦幕開け!

信長全合戦

「織田信長」vs「武田信玄」

信長、ついに信玄との合戦勃発か…。

1572年(元亀3年)9月に北近江の「浅井長政」との決着も付かぬまま、その年の11月、東美濃にある「岩村城」を巡り武田信玄との戦いが勃発!

この戦いは足掛け3年、1575年(天正3年)まで続いた戦となります。

まずは勃発直後の「第一次岩村城の戦い」を解説してまいります。

岩村城 場所 アクセス

現在の岐阜県恵那市岩村町 岩村町城山にあります。

岩村城址

岩村城復元図

岩村城航空写真

岩村城主「遠山景任(とおやまかげとう)」の死

1572年(元亀3年)8月、それまで「武田信玄」「織田信長」にも友好的だった岩村城の城主である「遠山景任(とおやまかげとう)」が病没してしまいます。

もともと美濃(斎藤道三領国)方であったのが、信長の美濃侵攻で織田家臣従となり、武田信玄との友好関係もあり信長にとって岩村城の遠山景任は、武田甲斐との良い抑え役となっていました。

子のいなかった景任がその年の8月14日に病死で亡くなった後、信長は五男である「坊丸(織田勝長)」を養子にするため「河尻秀隆」「織田信広(信長兄)」を送り込みます。

おつやの方

しかし当時の坊丸はまだ3歳で、景任正室で信長の叔母「おつやの方」が女城主として岩村城の主(あるじ)となります。

兄信広と河尻秀隆が引き上げた後の10月、武田側の別動隊である「秋山信友(あきやまのぶとも)」侵攻し合戦となり、第一次岩村城の戦いが始まります。

第一次岩村城の戦い 織田軍vs武田軍 布陣 戦力比較

10月3日、武田信玄の西上作戦(上洛)が開始され、「河尻秀隆」と「織田信広」の撤退を確認した武田側の「秋山信友」は、女城主で手薄となった岩村城に攻め込みます。

織田信長覇道の全合戦

遠山氏は以前は武田氏に臣従していましたが、当時は「おつやの方」が岩村城主となっており武田氏とは敵対関係となっていました。

攻め入る武田秋山隊に対し、岩村城のおつやの方は籠城戦となります。

参考:秋山信友(虎繁)の最期と岩村城の激しい攻防戦を徹底解説!

完全に城を包囲された岩村城のおつやの方、決着はいかに…。

兵力差

【織田軍】 【武田軍
不明 不明

戦闘目的

【織田軍】 【武田軍】
岩村城防衛 岩村城攻略

主な参戦武将

【織田軍】 【武田軍】
おつやの方・遠山景行 他 秋山信友 他

完全に城を包囲された岩村城のおつやの方。

善戦すれども、長引けば長引くほど不利と悟ったのか、女城主おつやの方は、自らが秋山信友の妻となることで降伏し、11月14日に城兵及び遠山一族は武田氏の軍門に下りました

ここに岩村城は武田方となり「下条信氏」が入城することになります。

信長は11月15日の書状で延友佐渡守に、「岩村の儀は是非も無し」と功を労い、土岐郡日吉郷・釜戸本郷を与えたと言います。

討死武将

【織田軍】 【武田軍】
遠山景行 他 不明

第一次岩村城の戦い 結果

信長五男の坊丸(織田勝長)を養子として送ったものの、最終的には「おつやの方」が降伏してしまい、「坊丸(織田勝長)」は武田側に「人質」に取られることになります。

これを不服としたのか12月には「遠山景行」上村合戦を起こすも善戦むなしく討死することになります。

この先、この岩村城を巡り、武田軍との合戦は続くことになります。

よってこの合戦は、11月14日におつやの方が「秋山信友」の妻になる事を条件とし降伏開城したことから「信長の負け」とします。

【織田軍】 【武田軍】
おつやの方の降伏により、

五男坊丸も人質にされ屈辱的敗戦

戦傷少なく、岩村城も得られ、人質も得たことから大勝利となった合戦

第一次岩村城の戦い まとめ

甲斐国との境で、良い抑えとなっていたはずの「岩村城」でしたが、信長の叔母である「おつやの方」の裏切りに合い、岩村城を無くしたのに加え、五男「坊丸」まで人質に奪われたこの合戦。

信長にとって痛い敗戦になった事は間違いありません。

この先、北近江越前の「浅井・朝倉」討伐に加え、東側甲斐の「武田信玄」にまで備えをしなくてはならなくなった信長

将軍「足利義昭」の敷いた「信長包囲網」がじわじわと信長の周囲にを向けてきたようです。

この隙にも武田信玄三河に攻め入り、信長の尾張へと進軍する勢いです。

いよいよ追い詰められてきた信長、この先どうする…?!

 

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