真言宗総本山「高野山」!
比叡山延暦寺の二の舞となるか…
高野山vs織田信長
【高野山制圧戦】
「高野山」は空海(弘法大使)が開いた真言宗の総本山として、「比叡山延暦寺」と並ぶ信仰の中心であると共に、全国に散在する寺領の合計は17万石に達する紀伊の一大勢力となっていました。
その高野山と織田信長の関係が怪しくなったのが、1580年(天正8年)3月、「有岡城の戦い」で謀反を起こし、城兵を置き去りにして逃走した「荒木村重」の残党5人が高野山中に逃げ込み、これを捜索した際に、高野山側が、信長の向けた捜索隊32名を切り捨てたことから始まります。
荒木村重の残党が逃げた高野山中に、信長は7月に「前田利家」「不破光治」を使者として高野山へ差し向けたものの、「高野山」側は面会を拒否。
高野山が面会を拒む理由が分からない信長は、翌月の8月、今度は堺政所の「松井友閑」配下の足軽32人を高野山に差し向け、荒木残党の捜索を行ったところ、「高野山」側によって全員殺害されることになります。
高野山側は、足軽達が捜索ではなく「乱暴狼藉」を働いたため討った、としていますが、信長は32名全員の殺害に怒り、諸国の「高野聖(こうやひじり/勧進僧)」を捕えるよう命じます。
そして、同月の8月17日、捕らえた「高野聖」数百人を安土で斬殺します。
これが発端として、信長の高野山制圧へと進んでいった合戦が「高野山制圧戦」と言われています。
信長は、その年(1581年天正9年)の10月、三男「織田信孝(のぶたか)」を総大将に、13万7000の大大軍を率いて高野山に侵攻します。
高野山制圧戦 奥の院 場所 アクセス
高野山は、和歌山県高野山麓から紀ノ川南岸一帯に位置し、合戦は「紀ノ川」を挟んで行われ、北に織田軍、南に高野山軍の布陣でした。
織田軍の動き
13万7000の織田軍に対し、高野山軍は3万6000の軍勢を率い、「紀ノ川」を南北に分かれて対峙した両軍。
総大将の「織田信孝」は背山城に本陣を構え、「松山新介」は多和城に着陣し、紀ノ川の北側は織田の軍勢で溢れかえっていました。
対する高野山の布陣は、伊都・那賀・有田郡から総動員し、軍師である「橋口隼人」を中心に、「高野七砦」と言われる7か所に砦を築き、織田軍の侵攻を防ぐ徹底抗戦の構えです。
そして西の「麻生津口」と北の「学文路口」を特に重視して、麻生津口に南蓮上院弁仙(遊佐信教の子)、学文路口に花王院快応(畠山昭高の子)を配置します。
高野山制圧戦 織田軍vs高野山軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【高野山軍】 | ||
13万7000 | 3万6000 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【高野山軍】 | ||
高野山制圧 | 制圧阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【高野山軍】 | ||
織田信孝・堀秀政・筒井順慶・岡田重孝・松山新介 他 | 南蓮上院弁仙・花王院快応・橋口隼人 他 |
合戦のゆくえ
1581年(天正9年)10月、「織田」軍と「高野山」軍は紀ノ川を挟んで対峙する形になりましたが、なお「交渉」は継続されており、同年中はどちらかが先に軍事攻撃を仕掛けることはなく、目立った戦いはありません。
しかし、翌年戦局が変化します。
2月初頭に、多和城に陣を置いていた「松山新介」が九度山方面へ攻撃を仕掛けます。
2月9日、信長は武田攻めに当たっていた、「筒井順慶」以下大和衆に出陣を促し、同時に、大和衆の一部と河内衆は残留して、高野山の抑えとなるよう命じます。
14日、「高野山」軍は、松山新介の「多和城」と、筒井順慶隊の守る「大和口」砦を攻撃。
2月末、織田方の岡田重孝らが「学文路口」の西尾山砦を攻めるも、部将2人が討死し撤退となります。
3月3日、高野山軍50余人が「多和城」を夜襲し損害を与えます。
3月10日早朝、織田軍は夜襲の報復として「寺尾壇」砦を攻撃、城将医王院が討死するも、織田軍の損害も甚大で撤退となります。
4月初め、織田信孝は、四国攻めの大将に任命されたため転任。
同月、織田軍の「竹田藤内」隊が、麻生津口の「飯盛山城」を攻撃するも、高野山勢は「南蓮上院弁仙」と「橋口隼人」らがこれを防ぎ、織田軍は竹田藤内ら四将が討ち取られ撤退となります。
そして、6月2日、
夕刻になり、織田軍に「本能寺の変」の報せが届き、「信長」が自刃した事を訊きます。
これにより織田軍は、信長の弔い合戦へと撤退せざるを得なくなり、高野山軍の追撃をかわし京へと反転したために、高野山は危機を脱し、殲滅の逃れました。
「高野春秋」では、撤退する織田軍を打ち破ったとありますが、「本能寺の変」がなければ、やがて敗戦となるのは明らかでしたので、この合戦は「引き分け」としました。
討死武将
【織田軍】 | 【高野山軍】 | ||
竹田藤内 他 | 不明 |
【織田軍】 | 【高野山軍】 | ||
数的優位も本能寺の変で、侵略の趣意が変わり撤退 | 数的不利も敵軍撤退による決着つかず |
高野山制圧戦 その後 まとめ
「本能寺の変」で信長の死を訊いた織田軍ですが、数的優位で戦局も、このまま合戦が続けば勝利は間違いのなかったものの、合戦の趣意が変わってしまった現時点では、撤退して「弔い合戦」へと向かわざると得なかったと思われます。
その後高野山は、秀吉の「紀州征伐」(1585年4月)で降伏することになります。
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