【安食の戦い】柴田勝家参戦!信長考案「長槍」で清州織田家を制す!

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信長の父信秀がこの世を去って依頼、清州織田家「織田信友」とは萱津の戦い(1552年天文21年)から敵対している。

そんな中、清州守護である「斯波義統(しばよしむね)」が、織田信友の家臣「坂井大膳」「河尻佐馬丞」「織田三位」に襲撃され殺害されます。

義統の子「義銀」はこの報せを受け、信長の居城である那古野城へ逃げ込みます。

これを機に、清州織田家「織田信友」を討つ「大義」を得た信長が兵と共に出陣します。

この戦いが「安食の戦い」(1554年天文23年7月18日)です。

父の信秀が死んでからわずか2年あまり、未だ信長と敵対する清州織田家「織田信友」との決戦

信長が考案していた「長槍」が勝敗を左右することになります。

安食の戦い 背景 経緯

尾張守護として清州城に居住していた「斯波義統・義銀親子」。

守護とは名ばかりで、織田信友と家臣の坂井大膳の傀儡(思いのまま・操り人形)状態でした。

尾張守護代ではあるものの、清州織田家の「織田信友」は自らが守護を狙っていました。

そのような中、義統の子義銀が屈強の家臣を連れ川狩りへ出かけた際に、信友・坂井大膳らが「義統」を襲い殺害します。

義銀らは、信長の元(那古野城)へ逃げ込み助けを求めます。

この事がきっかけとなり「安食の戦い」は始まったのです。(注)中市場合戦ともいわれています。(信長公記)

安食の戦い 場所 合戦図

「安食の戦い」の場所は、現在の愛知県名古屋市北区と言われていますが正確な場所は分かっていません。

現在では那古野城と清州城のちょうど中間辺りではないかと推察されています。

(参考:Googleマップ)

「織田信友」討伐の大義を得た信長は、「柴田勝家」に命じ清州へ出陣します。

三王口で合戦が始まり、後退した信友勢は乞食村(春日井郡安食村)、続く成願寺で応戦しますが支えきれず、ついに町口大堀の中まで追い入れられてしまいます。

信友家臣の「河尻左馬丞」「織田三位」らが奮戦しますが、信長考案の「槍」の勢いは鋭く、柴田勝家以下将兵が「佐馬丞」「織田三位」以下30騎を討ち取ります。

織田三位の首を取ったのは、義統の直臣だった「由宇喜一(ゆう きいち)」だったといいます。若干18歳の若者でした。

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安食の戦い 信長vs信友 戦力比較

兵力差

【信長軍】 【織田信友軍】
不明 不明

戦闘目的

【信長軍】 【織田信友軍】
清州織田討伐 討伐阻止

主な参戦武将

【信長軍】 【織田信友軍】
柴田勝家・大田牛一・由宇喜一他 坂井大膳・河尻佐馬丞・織田三位他

安食の戦い 戦況 信長考案「長槍」

1554年(天文23年)7月18日。

信長は柴田勝家に命じ、清州へと向かわせます。

安食村で交戦となりますが、清州勢はじりじりと後退を余儀なくされ誓願寺前まで押され防戦。

信長軍は、信長自身が考案したとされる「長槍」が功を奏し一気に攻め続け、ついに敵大将の河尻様丞織田三位を討ち取ります

この時使用した「長槍」は、通常2間半(4.5m)に対し、3間半(6.3m)もの長さがあったと言います。

その差約2m、織田信友軍の槍は、信長の兵たちに届かなかったらしく、この差が勝敗を決したという事です。(信長公記:著大田牛一)

*ちなみにこの戦いでは信長公記著者の「大田牛一」が参戦しています。安食村は大田牛一の生誕地ともいわれています)

(Photo:日本甲冑合戦之会

討死武将

【信長軍】 【織田信友軍】
【人数不明】 【人数30余】

河尻佐馬丞・織田三位他

結果

【信長軍】 【織田信友軍】

【結果】

長槍使用

【結果】

長槍の前に屈した

安食の戦い まとめ

1554年(天文23年)7月18日、清州織田家討伐のきっかけとなった「安食の戦い」

「長槍」という、信長の新しい武器で勝利しました。

父信秀の死後、未だ尾張領内で敵対する清州織田家との戦い

信長の「尾張統一」は、この先も続くことになります…。

 

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