【高岡城攻め】信長窮地!背後が危ない!「山路弾正」の策略に辛酸をなめる!

信長全合戦

 

背後に、敵襲あり!

山路弾正の策略に、信長後退!

つい数日前に、近隣の「楠城」を制圧した信長は、間髪入れずに神戸具盛(かんべとももり)の重臣である「山路弾正(やまじだんじょう)」の守る「高岡城」を攻めています。

「楠城」からわずか1キロ程西に位置する「高岡城」は、楠城勝利の勢いのまま攻撃したと言えそうですが、「山路弾正」の高岡城は、そうやすやすとは崩れません。

稲葉山城攻撃と同じ時期に、繰り広げられた信長方「滝川一益」vs伊勢国人衆神戸具盛方「山路弾正」の合戦「高岡城攻め」を紐解いてまいりましょう。(勢衆軍記)

高岡城攻め 場所 地図

高岡城は現在の三重県鈴鹿市高岡町字茶山の高岡城跡公園にあります。

鈴鹿川沿いの小高い山頂にあります。現在は高岡城址公園となっています。

高岡城址公園 参考:城郭放浪記

高岡城址 参考:城郭放浪記

高岡城遠望 参考:城郭放浪記

航空写真 中心が高岡城 右に楠城 面前は鈴鹿川

高岡城攻め 織田軍v山路弾正 布陣 戦力比較

合戦図

織田信長覇道の全合戦

1567年(永禄10年)8月、楠城を攻め落とした信長は、そのまま「高岡城」に進軍します。

楠城からは西側へおよそ1キロほどの場所に位置する「高岡城」攻略は、楠城を落とした信長にとってはもはや当然の進軍でした。

守備する高岡城の「山路弾正(やまじだんじょう)」は、名将と呼ばれ大軍で押してくる織田軍に抵抗の構えを見せます。

兵力差

【織田軍】 【山路弾正軍
2~3万 不明

戦闘目的

【信長軍】 【山路弾正軍】
伊勢侵攻 侵攻阻止

主な参戦武将

【信長軍】 【山路弾正軍】
滝川一益 他 山路弾正 他

高岡城攻め 合戦の行方

楠城を落とした勢いのまま、信長軍は「山路弾正」の守る「高岡城」一気に攻め込みます。

滝川一益

しかし「山路弾正」の頑強な抵抗にあい、信長2万もの軍勢でもなかなか城を落とすことが出来ません。

攻防は10日も続きますが決着がつかず、信長方の「滝川一益」を派遣して降伏(和議)を促します。

しかし、「山路弾正」はそれを断り、徹底抗戦の構えを見せます。

信長、背後が危ない! 山路弾正の策略勃発!

合戦当時信長は、稲葉山城も包囲し美濃制圧の最終段階でもありました。

つまり、信長はこの時期、2箇所で合戦をしていたのです。

それを知っていた「山路弾正」は、窮地に押されながらも起死回生の策略を放ちます。

信長の美濃攻略を大きく左右していた「美濃三人衆」安藤守就(あんどうもりなり)・稲葉一鉄(いなばいってつ)・氏家卜全(うしいえぼくぜん)へ密使を送り、”膠着状態が続いている今こそ信長の背後を討つ絶好の時”と進言したのです。

さらに、信長方へ”美濃三人衆が寝返り武田信玄と結んだ”と流言します。

高岡城を含む神戸城、浜田城の3城を包囲していた信長でしたが、今は帰順の意を明らかにしている「美濃三人衆」の寝返りを恐れ、慌てて「稲葉山城」へ戻ります

「山路弾正」の策に見事に嵌り、大将信長がいなくなった信長軍は逆襲にあい、撤退を余儀なくされました。

討死武将

【信長軍】 【山路弾正軍】
不明 不明

高岡城攻め 結果

1567年(永禄10年)8月、「山路弾正」の策略に嵌って撤退したものの、回りの領地は制圧しているので、引き分けと判定。

【信長軍】 【山路弾正軍】

撤退はしたが周辺領地は制圧

窮地を策略で回避

高岡城攻め まとめ

1567年8月美濃の稲葉山城侵攻とほぼ同時期に始まった北伊勢侵攻は、桑名・員弁、朝明の制圧に続き「楠城」を落とし、高岡城、神戸城、浜田城を包囲したまでは順調でしたが、高岡城の名称「山路弾正」の策によって撤退となりました。

「山路弾正」の落城寸前での一発逆転の策は、敵ながらあっぱれといったところですが、信長方にも周辺の領地制圧は出来ていましたので、両者痛み分けといった合戦となりました。

急ぎ「稲葉山城」に戻った信長は、信長軍の流言に惑わされる事なきを得ましたが、当の信長にとっては辛酸をなめる思いだった事と思います。

翌年、信長は稲葉山城を陥落させた後に、再びこの地を侵攻することになるのです。

 

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