岸信周・岸信房 討死!
堂洞合戦!
つい1か月ほど前に、「犬山城」の織田信清を降伏させ、中美濃の「宇留摩(鵜沼)城」「猿啄城」「美濃金山(兼山)城」の3城を攻略し、美濃侵攻に光明が差してきた信長ですが、各城で逃れた兵たちは猿啄城から数キロ北に位置する「堂洞城」に逃れていました。
「堂洞城」は当時、岸信周・勘解由左衛門(きしのぶちか・かげゆさえもん)が城守となっており、すぐ側には「加治田城」(佐藤忠能・さとうただよし)、「関城」(長井道利)の3つの城で「中農三城盟約*」が結ばれていました。
*「中農三城盟約」:美濃斉藤軍の反信長勢力
先の合戦の勝利から兵の士気も高い信長軍、勝利の勢いのまま「堂洞城」を包囲するも、さすがに「中農三城盟約」一角に、うかつに手を出すわけにもいきません。
いつ援軍が来てもおかしくない状況です。
そこで信長は、まず近習の「金森長近」を使者として遣わし、それぞれ3城主に投降を促します。
しかし3城とも投降には応じず敵対したものの、加治田城の「佐藤忠能」だけは織田方の「丹羽長秀」と内応し投降に応じます。
加治田城の「佐藤忠能」が織田方に寝返った報せを聞いた斉藤龍興は、「長井道利」を出陣させ堂洞付近で信長軍と合戦となります。
織田信長と投降に応じた加治田城「佐藤忠能」と、斉藤方「長井道利」と堂洞城「岸信周・岸信房父子」の戦いを「堂洞合戦」と言います。
この戦いは、敵ながら奮戦した「岸信周・岸信房父子」の壮絶な討死で終わりを迎えることになるのです。
堂洞合戦 場所 地図
堂洞城の場所は現在の岐阜県加茂郡富加町夕田にあります。
加治田城(佐藤忠能)とは目と鼻の先(1km程)の位置です。
現在は本丸・長尾丸・二の丸後の塀、土塁が残っており、本丸跡には「南無阿弥陀佛」の石碑が建立されています。
「堂洞城由来」の看板には信長が侵攻してきた旨記載されています。
堂洞合戦 織田軍v斉藤軍 布陣 戦力比較
1565年(永禄8年)9月28日、中農三城盟約の内、「加治田城」佐藤忠能の投稿に成功した信長は、残る2城のひとつ「堂洞城」(岸信周・信房父子)の四方を包囲します。
合戦図
織田軍は、「堂洞城」をぐるりと包囲し、西と南に「丹羽長秀」「河尻秀隆」「森可成」を配置し、北に「佐藤忠能」を配備します。
対する斉藤軍堂洞城は、南と西に「岸信周」、北に「岸信房」が守り、進軍を防ぎます。
斉藤軍の援軍である「長井道利」は城の3kmほど手前で信長軍に牽制され、両者は対峙します。
兵力差
【織田軍】 | 【斉藤軍】 | ||
4000 | 1500 |
戦闘目的
【信長軍】 | 【斉藤軍】 | ||
中農侵攻
堂洞城攻略 |
攻略阻止 |
主な参戦武将
【信長軍】 | 【斉藤軍】 | ||
織田信長・丹羽長秀・河尻秀隆・金森長親・大田牛一 他 | 岸信周・岸信房・長井道利・斎藤龍興 他 |
堂洞合戦 合戦の行方
1565年(永禄8年)9月28日、ついに両軍は激突します。
斉藤方の援軍である「長井道利」は、堂洞城の手前で信長に牽制されながらも、津保川を越してまで堂洞城を目指すも、信長軍はこれを阻止。
信長はその後、堂洞城本丸前の茶臼山に本隊を移動し、自ら馬に乗り各部隊を指揮します。
堂洞城の西側は地形が悪く、守備する「岸信周」隊の伏兵も防御が堅固で西側の牙城を崩すことが出来ません。
北側の「佐藤忠能」の攻撃は勝手知った地形ではあるものの、守る「岸信房」隊に何度も押し返されてしまいます。
押しては返され、数えること18回目、ようやく二の丸が崩れ本丸へ突入します。
本丸へと流れ込んだ信長全部隊は、1歩も引かず猛然と戦う「岸信周・岸信房父子」を激闘の末ついに倒し、正午から夕方まで続いた合戦は終わりを告げました。
この時「信長公記」の作者である「大田牛一」も参戦しており、堂洞城南側の攻撃で、弓で敵を射て手柄を立てています。
討死武将
【信長軍】 | 【斉藤軍】 | ||
不明 | 岸信周・岸信房 他 |
堂洞城合戦 結果
1565年(永禄8年)9月28日、堂洞城「岸信周・信房父子」を倒し勝利。
【信長軍】 | 【斉藤軍】 | ||
【勝因】 援軍を阻止 |
【敗因】 援軍来ず討死 |
堂洞合戦 まとめ
斉藤方の援軍である「長井道利」を阻止し、堂洞合戦に援兵させなかったのが勝利につながった信長軍。
壮絶な戦いとなり、18回もの攻撃に1歩も引かずに奮戦した「岸信周」でしたが、最期は妻と共に辞世の句を詠んで刺し違えました。
また子の「岸信房」は3か所に傷を負い、腹を十文字に掻き切って壮絶な最期を遂げました。
激戦の末、勝利した信長でしたが、合戦の翌日、足止めされていた「長井道利」が「斎藤龍興」部隊と合流し3000の部隊となり、「加治田城」(佐藤忠能)を攻撃します。
信長は、すぐさま斉藤道三の末子「斎藤利治*」を援軍に派遣し「長井道利軍」を撃退。*当時の斎藤利治は、父道三の死後、義兄の信長を頼っていました
翌月には「長井道利」の「関城」も陥落させて中農支配を確実なものとするのです。
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