おすすめ記事

信長全合戦

【越前侵攻戦】元亀争乱!越前「朝倉義景」討伐!前哨戦「金ケ崎城」を攻めよ!

「元亀争乱(げんきそうらん)」。 1570年4月23日に、「足利義昭」が将軍としての威光を示すために元号を「元亀(げんき)」と変更し、信長にとって最も激しい争乱の幕開けとなる時代のことを総じて表した言葉です。 この元号は信長によってわずか3年で改変されたものの、信長生涯(合戦)において、最も苦戦した(負け戦の多い)時代でもありました。 1569年10月に伊勢平定を成し遂げ、美濃制圧、伊勢平定と順調に「天下統一」への布石を打ってきた信長ですが、今や将軍「足利義昭」の前衛軍隊のお墨付きをもらっている信長の上洛要請に、越前国の「朝倉義景」は無視し続け、さすがの信長も堪忍袋の緒が切れたのか「朝倉義景」討伐に動き出します。 その前哨戦ともいえる越前国への侵攻が「越前侵攻戦」と言われています。 実はこの戦い、信長の越前侵攻に対する建前は若狭石山城の「武藤友益(むとうともます)」討伐でしたが、本音は再三の上洛を無視した「朝倉義景」討伐と言われています。 越前侵攻戦 場所 地図 アクセス 信長の真の狙いである「朝倉義景」討伐の建前となった越前侵攻は、まず最初に「若狭石山城」の「武藤友益」でした。 若狭石山城は福井県大飯郡おおい町石山にあり、現在は廃城となり石碑等はなく城址のみとなっています。 信長は進軍するものの若狭国の石山城を攻めることなく、真の狙いである「朝倉義景」がいる越前(一乗谷)へと軍勢を進めます。 まずは朝倉義景の支城である敦賀の「天筒山城」(福井県敦賀市天筒町の天筒山山頂にあった山城)と「金ヶ崎城」(福男見敦賀市金ヶ崎山に築かれた山城)を落城させた上で拠点を確保し、そして本城のある一乗谷への攻撃を開始するという作戦を立てます。 越前侵攻戦 織田軍v朝倉軍 布陣 戦力比較 1570年(永禄13年)4月20日、信長は徳川家康、松永久秀の軍勢を合わせた総勢3万の軍勢を率い近江坂本を出陣。 名目は若狭石山城の「武藤友益」征伐となっていますが、真の狙いは「朝倉義景」討伐でした。 突如、"武藤氏を煽動したのは朝倉だ"と軍勢を若狭から東の敦賀へ向け、23日に佐柿の「栗谷勝久」館に着陣し、越前の入り口にあたる佐柿で敦賀攻撃の準備に取り掛かります。 越前侵攻戦 合戦図
織田信長

【大河内城の戦い】決戦!伊勢平定戦「織田信長」vs伊勢国司「北畠具教・具房」!

信長の伊勢平定戦! つい2日前(1569年8月26日)に「木下秀吉(後の秀吉)」が負傷しながらも「阿坂城」を陥落させた信長は、8月28日に伊勢国司の「北畠氏」の本城「大河内城」の周りに鹿垣(ししがき)を二重三重に囲み包囲します。 ついに伊勢国司「北畠氏」を追い詰めた信長ですが、一方「北畠氏」は籠城し徹底抗戦の構えを見せます。 信長の伊勢侵攻の最終決戦となった「織田信長」vs伊勢国司「北畠具教・具房父子」。 「大河内城の戦い」を紐解いてまいります。 大河内城の戦い 場所 地図 アクセス 阿坂城は現在の三重県松阪市大河内町城山にあった山城で、西側と南側に深い谷が入り自然の要害城であり、伊勢国司の「北畠氏」の本城でもありました。 大河内城へのアクセスは、JR紀勢本線/近鉄山田線・松阪駅から三重交通バス「道の駅飯高駅」方面もしくは「柚原ゆき」バスに乗り「大河内バス停」下車です。 大河内城の戦い 織田軍v北畑衆 布陣 戦力比較 1569年(永禄12年)8月20日、信長は7万を超える軍勢を率い岐阜を出陣。 北畠具教(とものり)は信長の出陣に、本拠の多気にある多気山城(現在の霧山城三重県美杉)から堅固な「大河内城」に移動して信長軍と徹底抗戦の構えを見せます。 8月26日には木下秀吉(後の秀吉)が負傷しながらも、「大河内城」の支城である「阿坂城」を攻撃し落城させています。 翌日の27日には、信長本隊が大河内城の北東にある「桂瀬山」に着陣し、大河内城の北畠氏と対峙。 その時の軍勢、織田軍5万に対する北畠軍はおよそ8千。 28日、いよいよ合戦の火ぶたが切って落とされます。 大河内城の戦い 合戦図 信長軍の軍勢には、織田軍きっての精鋭「柴田勝家」、「丹羽長秀」、「滝川一益」、「稲葉一徹」、「池田信輝」、「前田利家」、「佐久間信盛」、「佐々成政」という豪華な武将たちが揃い、この戦いで当時14歳の「蒲生氏郷(がもううじさと、後の松坂城主)」が初陣を飾っています。 信長は着陣後、すぐさま「大河内城」城下の町を焼き払い、部隊を四方に分け、城の周囲を二重三重の柵で取 り囲み、完全に外部との往来を断つ戦略に出ます。 一方の北畠軍も、城内には兵糧を蓄え、籠城戦の構えです。
信長全合戦

【阿坂城攻め】秀吉、左脇に強弓を受けピンチ!大宮含忍斎の阿坂城を落とせ!

秀吉、左脇を射抜かれ負傷! 得意の調略で、阿坂城を落とせ! 信長の北伊勢侵略は、1567年(永禄10年)2月に始まり、翌年の2月に信長の三男信孝(のぶたか)を神戸氏の養嗣子にすることで北伊勢八郡を治めていました。 しかし、南伊勢五郡は国司大名である「北畠氏」により依然として信長に敵対する存在でした。 信長は、南伊勢に侵攻する機会を狙っていましたが、ついに1569年(永禄12年)にその機会が巡ってきます。 その年5月、当時、南伊勢国司であった北畠具盛(きたばたけとももり)の異母弟の木造城城主「木造具政(こづくりともまさ)」が誼(よしみ)を通じてきました。 それを知った北畠氏は、家臣の沢・秋山に木造城をの周りを包囲し、信長に寝返った木造具政を攻撃します。 信長は救援に滝川一益(たきがわかずます)を向かわせ「木造具正」を救出し事なきを得ますが、木造城の南方約5kmの北畠家重臣「大宮含忍斎(おおみやがんにんさい)」が守る「阿坂城」攻略を「木下秀吉(後の秀吉)」に命じます。 当時頭角を現してきた「秀吉」でしたが、これといった軍功がなかったので、信長が秀吉に手柄を立てさせるための合戦だったと言われています。 この合戦を「阿坂城攻め」と言います。 この戦で秀吉は、生涯で最初で最後の戦傷を負うことになるのです。 阿坂城攻め 場所 地図 アクセス 阿坂城は現在の三重県松阪市大阿坂町にあり国の史跡に指定されています。 当時の伊勢国司であった「北畠氏」にとって北伊勢(伊勢国北部)に対する重要な拠点でもありました。 阿坂城へのアクセスは、JR紀勢本線松阪駅、近鉄山田線松阪駅~バス/大阿坂 阿坂城攻め 織田軍v北畑衆 布陣 戦力比較 1569年(永禄12年)8月20日、信長は岐阜を出陣。軍勢は7万とも8万とも言われ、これだけの軍勢を率いた信長には南伊勢に対する相当の決意が見られます。 信長軍勢はその日のうちに北伊勢「桑名」まで進軍し、その日は桑名で野営します。 一方北畠氏も、信長の進軍を防衛態勢を敷きます。 当時の当主は「北畠具房(きたばたけともふさ)」、父の具教とともに「大河内城」に籠り、阿坂・船江などの周りの支城に兵を配備し、織田軍の進撃を阻む体制がとられました。 阿坂城攻め 合戦図
信長全合戦

【犬山城攻略戦】信長、小牧山城に居城移転!狙うは国宝「犬山城」!

美濃攻略の拠点 清州から犬山に移す! 2年の歳月をかけ、再度稲葉山城攻略を目指し、城下に攻め入ろうとした信長でしたが、またしても軍師「竹中半兵衛」の計略に嵌り「新加納の戦い」で敗北しました。 信長は2度にもおよぶ敗戦に、直接稲葉山城を攻めることを諦め、回りの支城から切り崩す作戦に切り替えます。 その為の拠点となる城を清州城から「小牧山城」に移します。 そして新加納で敗れた翌年の1564年(永禄7年)5月から8月にかけ、美濃の斎藤龍興と結び敵対している織田信清の「犬山城」攻略にかかります。 この戦が「犬山城攻略戦」といわれています。 犬山城攻略戦 場所 地図 場所は現在の愛知県犬山市犬山北古券で木曽川のほとりにあり、現在は国宝に指定されています。(清州城からは北東に25km位の場所) 犬山城攻略戦 織田信長vs織田信清 布陣 戦力比較 美濃攻略の方針を竹中半兵衛により変えた(変えさせられた)信長ですが、まずは織田信清のいる「犬山城」の孤立化を図ります。 合戦図 まず最初に、織田信清の家老である小口城の「中島豊後守」と黒田城の「和田新介」を、信長方の「丹羽長秀」が調略を持って寝返らせます。 この2人は、よほど信長の小牧山への移転を恐怖に感じ取ったのでしょうか、信清を裏切り信長へ恭順します。 そして、完全に孤立化させた「犬山城」の四方を、「鹿垣(ししがき)*」で包囲します。 *鹿垣(竹や枝つきの木で粗く編んだ垣) 兵力差 【織田信長軍】 【織田信清軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【織田信清軍】 犬山城攻略 攻略阻止 主な参戦武将 【織田信長軍】 【織田信清軍】 織田信長・柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀 他 織田信清 他 犬山城攻略 合戦の行方 1563年(永禄6年)4月に竹中半兵衛の計略で「新加納」で敗れてから1年後、美濃攻略の方針を回りの支城から攻め落とすことにした信長ですが、まず最初のターゲットが織田信清のいる「犬山城」でした。 1564年(永禄7年)5月に黒田城・小口城の調略に成功し、犬山城を孤立化させ四方を完全に包囲した信長ですが、犬山城の「織田信清」は籠城戦に持ち込み斉藤方の援軍を待ちます。
信長全合戦

【小口城の合戦】犬山城主「織田信清」反旗!信長vs信清の従兄弟対決勃発!

織田信長vs織田信清 従兄弟対決! 1561年6月下旬、一か月ほど前の「十四条・軽海の戦い」で勝利した信長でしたが、この戦いで弟を討ち取られてしまった犬山城主「織田信清」が斎藤龍興と組んで謀反の動きを見せます。 織田信清といえば、信長の従兄弟でもあり信長姉を娶り岩倉城攻めや尾張統一戦でも協力的で良好な関係にありました。 その信清が先の合戦で、無理やり戦場に駆り出され、弟を討死させられた腹いせか、美濃の斎藤龍興と結んで信長に反旗を翻します。 それを知った信長は、信清の反旗による北尾張の憂いを抱えることになり、犬山城の支城でもある「小口城」で信清との戦いが起こります。 これが「小口城の合戦」と言われています。 小口城の合戦 場所 地図 場所は現在の愛知県丹羽郡大口町城屋敷1丁目にあり、清州城からは北に15km程の場所にあります。 現在は小口城址公園となっています。 小口城の合戦 織田信長vs織田信清 布陣 戦力比較 合戦図 犬山城主「織田信清」は、支城の「小口城」と「黒田城」を領有し再び尾張国内に憂いを脅かす存在となります。 信長は当初、小口城の城主であった信清の家老「中島豊後守」を調略しようと試みますが失敗に終わります。 失敗した以上、力攻めで挑むしかありません。 1561年永禄4年6月末、信長vs信清の従兄弟対決が勃発するのです。 兵力差 【織田信長軍】 【織田信清軍】 不明 不明 戦闘目的 【織田信長軍】 【織田信清軍】 謀反反乱鎮圧 反乱 主な参戦武将 【織田信長軍】 【織田信清軍】 織田信長・岩室長門守 他 織田信清・中嶋豊後守 他 小口城の合戦 合戦 ゆくえ 信長軍は小姓衆が一体となり、城壁を討ち破り城内に入り戦います。 城内となればさすがに敵側の勝手知ったところ、信長方で信長の近習「岩室長門守」が、こめかみに槍を受け討死します。 両軍数時間戦いましたが、信長はついに小口城を攻略できずに撤退となりました。 討死武将 【織田信長軍】 【織田信清軍】 岩室長門守他10数名 不明 小口城の合戦 結果
信長全合戦

【梅ヶ坪城攻め】桶狭間で義元死後、清州同盟前の「信長」vs「元康」(家康)の対決!勝敗はいかに…⁉

信長vs元康(家康) 前哨戦! 勝敗はいかに…? 1560年5月「桶狭間の戦い」で今川義元が討死して以来、信長と元康(家康)の関係は未だ敵対同士です。 元康(家康)は、義元嫡男の「氏真」に義元の弔い合戦を進言しますが、氏真は動く気配がありません。 業を煮やした元康(家康)は、元々自らの拠点である岡崎城から信長の尾張へと勢力を拡大していきます。 信長もこれに対抗し、三河への侵攻を開始します。 桶狭間の戦いの翌年(1561年4月3日永禄4年)、信長と元康(家康)がまだ同盟する以前となる戦いが、「梅ヶ坪城」を舞台とした合戦です。 梅ヶ坪城攻め 場所 合戦図 場所は現在の愛知県豊田市梅坪町7丁目付近で、名古屋から東に約30kmの所にあります。 現在は廃城となっており、史跡はありません。 義元が桶狭間で討たれ、未だ動く気配を見せない嫡男氏家に対し、元康(家康)は自ら勢力を拡大し始めます。 以前は、織田家の人質として信長との親交もあったはずの元康(家康)は、その信長の領土である横根や石瀬に兵を出します。 その対抗策として、信長も三河の「梅ヶ坪城」を攻め入ります。 信長と元康(家康)の初対決となる合戦がいよいよ始まります。 梅ヶ坪城攻め 織田軍vs元康軍 布陣 戦力比較 兵力差 【信長軍】 【元康軍】 不明 不明 戦闘目的 【信長軍】 【元康軍】 三河侵攻 尾張侵攻 主な参戦武将 【信長軍】 【元康軍】 織田信長・平井九右衛門・水野信元・前野義高 他 石川数正 他 梅ヶ坪城攻め 経緯 勝敗 元康(家康)の横根・石瀬の侵攻に対抗して、「梅ヶ坪城」に攻め入った信長は、わずか三日で敵を追い詰め村や収穫前の田畑を焼き尽くします。 しかし敵兵も屈強な射手が出撃して応戦、白兵戦となり信長方の前野義高は討死します。 わずかな犠牲を出したものの、本格的な戦闘までにはならず、梅ヶ坪の大半を焼き尽くした戦果を挙げ信長は兵を返します。 一方の元康(家康)は、この戦いでは動かず沈黙を守り、信長との直接対決にはなりませんでした。 討死武将 【信長軍】 【元康軍】 前野義高 不明 勝敗​ 【信長軍】 【元康軍】 【勝因】 梅ヶ坪・刈田の田畑焼き払い戦果 【敗因】 元康(家康)動かず
信長全合戦

【品野城の戦い】桶狭間前哨戦・信長初黒星!松平家次を攻めるも三河武士(家康)に完敗!

三河武士強し! 奇襲に後退! 「品野城」は尾張領内にありながら、信長父「信秀」の時代に、松平清康(家康祖父)が攻略した城です。 当時の松平家は、すでに今川義元の支配下にあり、信長としては、いつ今川が侵攻してきてもおかしくない状況でした。 そこで信長は、三河に続く今川攻略として1558年(永禄元年)3月、この品野城を攻略すべく、五輪の山に砦である「山崎城」を築き合戦となったのが「品野城の戦い」です。 品野城の戦い 場所 合戦図 場所は愛知県瀬戸市上品野町秋葉山の山頂辺りにあり、写真の鳥居は稲荷神社の入り口となっていますが、品野城はこの奥にあったとされています。 現在は東海環状自動車道が通っており立入禁止になっています。 品野城の戦い 信長は「品野城」を攻略するために、まずは傍の山中に砦となる「山城城」を築きます。 城主には「竹村長方」と兵1000を置き、品野城攻めへのチャンスをうかがいます。 品野城主は勇猛果敢で知られる三河の「松平家次」。 当時の松平元康(家康)の命で城の守りを固めます。 そして1558年(永禄元年)3月、信長は一気に品野城へ攻め込むのです。 品野城の戦い 織田信長vs松平家次軍 布陣 戦力比較 信長軍 信行軍 兵力差 【信長軍】 【松平家次軍】 1000 不明 戦闘目的 【信長軍】 【松平家次軍】 失地回復 城防衛 主な参戦武将 【信長軍】 【松平家次軍】 竹村長方 他 松平家次 他 品野城の戦い 合戦 経緯 勝敗 砦の山崎城から一気に攻め込んだ信長軍ですが、相手は屈強の三河武士「松平家次」もひるまず応戦します。 信長軍1000に対し、松平家次軍は籠城のため実際の兵数が分かりません。 頑強に抵抗する松平軍に対し、一旦兵を山崎城へ戻し体制を立て直しかけたその時、夜陰の豪雨に紛れて松平軍が「夜襲」を掛けてきました! 豪雨に紛れ突然の急襲をかけてきた松平軍に、信長軍は竹村長方をはじめとする50余名の戦死者を出し山崎城から敗走。 品野城攻略どころか、砦の山崎城まで奪われる痛い敗戦となりました。 討死武将 【信長軍】 【松平家次軍】 【約50名】 竹村長方 他 不明 ほぼ無し 勝敗 【信長軍】 【松平家次軍】 【敗因】 夜襲は無いと油断
信長全合戦

【本能寺の変】真実!なぜ光秀は信長を討ったのか…真相‼

1582年(天正10年)6月2日早暁。 本能寺の外から聞こえるざわめきに、信長は丁度、自らの顔と身体を拭いたところだった。 町衆が喧嘩でもしているのか…、と思っているうちに「鬨の声」が上がり、渇いた「鉄砲」の音が鳴り響いた! パァ~~~ン 信長が「本能寺」で明智光秀の謀反を知った時の、森蘭丸と交わした会話です。 「是非に及ばず(やむおえない)(しかたがない)」 この言葉は信長が最後に発した言葉として有名ですね。 わずか50余の供回りしかおらず、明智光秀が1万3000の兵で「信長」を襲った、「本能寺の変」! しかし、「本能寺の変」の原因は、その後ずっと議論が続けられるものの真相は分かっておりません。 明智光秀の怨恨説や野望説、信長の油断が招いた油断偶発説、光秀を陰で動かした朝廷や足利義昭、秀吉、家康、毛利などの黒幕説まで、話題が尽きません。 このコーナーでは「本能寺の変」の定説となっている「信長公記(大田牛一)」の史実(記録)を基に、明智光秀の「怨恨野望説」に焦点を当て取り上げてみました。 光秀は、なぜ信長に謀反を起こそうと思ったのか…? 光秀は、その時、何を考えたのか…? 光秀が信長を討った「行動の謎」を紐解いてまいります。 本能寺の変 真実 光秀は信長の性格に耐えられなかった…? 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス(信長) 鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス(秀吉) 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス(家康) これは信長・秀吉・家康になぞらえた川柳です。 信長の性格は、秀吉や家康と違い、自分の意に反するものは「すべて殺してしまえ」という、短気で荒々しい性格と言えます。信長が、なぜ「殺してしまえ」という表現を用いられているのかについては歴史を紐解くと明らかになります。 戦国時代、弱いものが強いものの方へなびくことは当たり前の世の中で、「裏切り」や「謀反」は日常茶飯事(世の常)でもありました。 特に信長は、自分に反旗を挙げた「浅井長政」(姉川の戦い・小谷城攻め)、「松永久秀」(信貴山城攻め)、「荒木村重」(有岡城の戦い)では、後の戦いで本人はおろか、妻・子供関係するものすべてを殺し、家もろともすべて滅亡させています。(村重のみ後に出家、妻子は磔斬首)
信長全合戦

「織田信長」について!全合戦・年表一覧!

戦国史上、最大の天才といわれ革命家でもあった「織田信長」。 数多い戦国武将の中でも人気ナンバーワンであり、その魅力は未だに語り継がれ、現代の人々の心をひきつけます。 今から450年ほど前のこと、信長が生きた安土桃山時代(1573~1603)は群雄割拠の戦国時代。 信長が戦った「全合戦」をご案内してまいりましょう。 織田信長 城 生誕地 信長は尾張国古渡城・織田信秀の嫡男(三男)として1534年誕生しました。 母は正室「土田御前」、幼名は「吉法師」と名乗り、信長が乳飲み子の時から何人もの乳母の乳首を食いちぎったとされ、すでにこの頃から「うつけ」ぶりが見られます。 生誕地は諸説あり、「那古野城(現名古屋城)」もしくは「勝幡城」と言われています。 当時の那古野城は現在の名古屋城(二の丸)に当たり、勝幡城は名古屋の西方(稲沢市平和町)にあり、城郭などは存在しておらず勝幡城址として残っています。 信長が生まれる2年前の1532年、父信秀が今川氏豊(今川家)の那古野城を攻め落とし、2年後の1534年に信長が生まれたので生誕地は「那古野城」とされていたのが古くからの定説でした。 しかし公家の山科言継(ときつぐ)の日記「言継卿記」に、1533年7月に「勝幡城」にいる織田信秀に招待され、その時に那古野城の竹王丸(今川氏豊)と面会した、という記述が見つかり、長年定説とされてきた生誕地=那古野城という説が崩れ、信長は翌年の1534年5月に生まれたということから「勝幡城」説が現在では有力となっています。(photo:国立国会図書館) 織田信長 家紋 織田信長の家紋といえば有名なのがこの「木瓜紋」。 由来は胡瓜の断面や花の形から案出されたという説があり、形が卵の入った鳥の巣を上から見た形に似ていることから、今後さらに卵が増え子孫に繋がるようにと「子孫繁栄」の意味で使われることが多いといわれています。 木瓜紋は外葉の数により、三瓜、四瓜、五瓜、六瓜と数種あり、織田家は五瓜に当たります。 もっこうと 呼ばれてきたのは、多くの神社の御簾の帽額(もこう)に使われた文様だからといいます。 もともと公家が使っていた有職文様の一つでしたが、御簾や牛車に使われるようになり、しだいに家紋としても使われるようになりました。 織田信長 肖像画
タイトルとURLをコピーしました