【大河内城の戦い】決戦!伊勢平定戦「織田信長」vs伊勢国司「北畠具教・具房」!

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信長の伊勢平定戦!

つい2日前(1569年8月26日)に「木下秀吉(後の秀吉)」が負傷しながらも「阿坂城」を陥落させた信長は、8月28日に伊勢国司の「北畠氏」の本城「大河内城」の周りに鹿垣(ししがき)を二重三重に囲み包囲します。

ついに伊勢国司「北畠氏」を追い詰めた信長ですが、一方「北畠氏」は籠城し徹底抗戦の構えを見せます。

北畠具教

信長の伊勢侵攻の最終決戦となった「織田信長」vs伊勢国司「北畠具教・具房父子」

「大河内城の戦い」を紐解いてまいります。

 

大河内城の戦い 場所 地図 アクセス

阿坂城は現在の三重県松阪市大河内町城山にあった山城で、西側と南側に深い谷が入り自然の要害城であり、伊勢国司の「北畠氏」の本城でもありました。

大河内城本丸跡 参考:イオニア

大河内城碑 参考:イオニア

大河内城へのアクセスは、JR紀勢本線/近鉄山田線・松阪駅から三重交通バス「道の駅飯高駅」方面もしくは「柚原ゆき」バスに乗り「大河内バス停」下車です。

大河内城遠望 参考:dougen

大河内城航空写真

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大河内城の戦い 織田軍v北畑衆 布陣 戦力比較

1569年(永禄12年)8月20日、信長は7万を超える軍勢を率い岐阜を出陣。

北畠具教(とものり)は信長の出陣に、本拠の多気にある多気山城(現在の霧山城三重県美杉)から堅固な「大河内城」に移動して信長軍と徹底抗戦の構えを見せます。

8月26日には木下秀吉(後の秀吉)が負傷しながらも、「大河内城」の支城である「阿坂城」を攻撃し落城させています。

翌日の27日には、信長本隊が大河内城の北東にある「桂瀬山」に着陣し、大河内城の北畠氏と対峙。

その時の軍勢、織田軍5万に対する北畠軍はおよそ8千。

28日、いよいよ合戦の火ぶたが切って落とされます。

大河内城の戦い 合戦図

大河内城合戦図

信長軍の軍勢には、織田軍きっての精鋭「柴田勝家」、「丹羽長秀」、「滝川一益」、「稲葉一徹」、「池田信輝」、「前田利家」、「佐久間信盛」、「佐々成政」という豪華な武将たちが揃い、この戦いで当時14歳の「蒲生氏郷(がもううじさと、後の松坂城主)」が初陣を飾っています。

信長は着陣後、すぐさま「大河内城」城下の町を焼き払い、部隊を四方に分け、城の周囲を二重三重の柵で取 り囲み、完全に外部との往来を断つ戦略に出ます。

一方の北畠軍も、城内には兵糧を蓄え、籠城戦の構えです。

信長は、短期決戦の戦略で力攻めの攻撃に出ますが、思いのほか北畠軍の激しい抵抗に遭い、この戦いは長期戦を余儀なくさせられます。

兵力差

【織田軍】 【北畠軍
5万 8千

戦闘目的

【織田軍】 【北畠軍】
伊勢平定 北畠氏討伐 阻止

主な参戦武将

【織田軍】 【北畠軍】
柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、稲葉一徹、池田信輝、前田利家、佐久間信盛、佐々成政 他 北畠具教、北畠具房 他
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大河内城の戦い 合戦の行方

「大河内城」の周りを鹿垣で完全に包囲していた信長ですが、籠城による北畠氏の長期戦の構えに嫌気がさしたのか、9月8日に「丹羽長秀」「池田恒興」「稲葉良通」に夜襲を掛けるよう命じます。

夜襲は、それぞれ3隊に分かれて攻めたものの、途中、雨が降り出したために信長方の鉄砲が役に立たず、逆に返り討ちに合い多くの死傷者を出してしまいます。

まむし谷

「大河内城」の西側と南側は深い谷となった要害となっており、その一つが、まむしが良く表れたことから「まむし谷」と呼ばれ、信長は「滝川一益」に、その谷から攻撃するよう命じます。

「滝川一益」隊3千は、「まむし谷」から総攻撃をかけます。

まむし谷から駆け上がる滝川隊に対し、守備する北畠城兵からは「鉄砲」や「矢」に加え、「竹槍」、「石」、「木材」など、ありとあらゆるものが投げられ、「滝川一益」隊の進軍を赦しません

滝川隊は、その抗戦にまむし谷を上がることが出来ず、逆に谷底に落とされ総崩れとなり撤退となります。滝川隊の倒れた兵士から流れ出た血が、川のように流れていたといわれていることから、攻防戦は後に「まむし谷の血決戦」と呼ばれました。

力攻めでの落城は不可能と感じた信長は、再び「大河内城」包囲戦へと戦略を変え、北畠氏の元の居城であった「多気山城(霧山城)」を攻撃し、「大河内城」への兵糧を完全に断ち切ります

先の「まむし谷の血決戦」で惨敗を喫していた「滝川一益」に多気山城の攻撃を命じ、稲田畑を焼き払わせ面目を保たせたと言います。

そして10月3日、完全に兵糧が途絶えた「大河内城」の「北畠具教」に、信長の次男「茶筅丸(後の信雄)」を養嗣子にすることで、和睦を受け入れさせ大河内城を明け渡すことで終戦。

討死武将

【信長軍】 【北畠軍】
不明 不明

大河内城の戦い 結果

1569年(永禄12年)8月28日から始まった、信長の伊勢平定の最終決戦である「大河内城の戦い」は、10月3日信長次男「茶筅丸(後の信雄)」が北畠家の養嗣子*となる事で和睦となり、信長の有利な形で終わることとなり決着となりました。和睦なので一見引き分けにも見えますが、信長へ分の良い有利な形の和睦なので信長勝利としました。

*養嗣子(ようしし):その家の家督を継ぐ人の事(この和睦条件は、次の家督が織田家次男の茶筅丸になるため、北畠氏としては受け入れがたい条件でした)

【信長軍】 【北畠軍】
次男茶筅丸が養嗣子になる 養嗣子受け入れ
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大河内城の戦い まとめ

織田信雄(先の茶筅丸)

1569年(永禄12年)10月3日に、信長次男「茶筅丸(後の信雄)」が養嗣子となる事を条件に和睦が成立しました。

信長の伊勢侵攻の最終決戦である「大河内城の戦い」は信長の勝利で終わり、この戦いを最後に伊勢平定が完了しました。

 

名門北畠氏「北畠具教」のその後

和睦を受け入れた名門北畠氏ですが、その後は大河内城に乗り込んできた織田方に実効支配されていきます。

合戦から6年後の天正3年(1575年)には大河内城の城郭を「田丸城」に移し、新装の「田丸城」には「織田信雄(先の茶筅丸)」が入ります。

これにより150年続いた大河内城は終焉を迎えます。

「北畠具教」は三瀬谷(多気郡大台町)に隠居しましたが、信勝が田丸城に入った翌年の天正4年(1576年)11月25日、信長と信雄の命を受けた旧臣たちの襲撃を受けて殺害されてしまいます。

これは、織田方の実効支配を心良く思わない具教が、ひそかに甲斐の「武田信玄」と通じていたからと言われています。

さらにこの時、北畠一門の主な者が織田信雄の居城・田丸城においてことごとく殺害されています。信雄に嫁いでいた「雪姫」もこのとき殺害されてしまい、北畠具教の長男「具房」は、父具教が殺されてから3年幽閉された後死んでしまいます

こうして、伊勢の国司だった名門「北畠氏」は滅んでしまいます。

それは「本能寺の変」織田信長が討たれる7年前のことだったのです。

 

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