10年に渡る因縁合戦もついに終了!
織田信長vs石山本願寺
【石山本願寺攻略戦】
1580年(天正8年)1月に入って、2年もの籠城を続けた別所治長「三木城」が陥落(三木合戦)し、上杉謙信も病没し、「上杉」「毛利」「本願寺」の「反信長同盟」も崩壊寸前となっていました。
本拠地である「石山本願寺」は、周りを信長の大軍で包囲されており、唯一の補給路であった「海路」も、信長の巨大戦艦による守備(第二次木津川口の戦い)で、本願寺への救援も遮断されており、「石山本願寺」は完全に孤立状態となっていました。
こうして10年以上に渡る、信長と本願寺の戦いは、終焉を迎えることになります。
この本願寺との最終決戦となった戦いを「石山本願寺攻略戦」と言っています。
石山本願寺攻略戦 場所 地図 アクセス
石山本願寺は、現在の大阪の中心に位置(大阪市中央区)する「大阪城」の場所にあり、戦国の当時は「大坂本願寺」「大坂城」と呼ばれており浄土真宗の本山でした。
当時、寺院としては規模が大きく、堀や土居、水路で囲まれ、軍事的な防御を要しており、戦国時代における「城」の呈を成していました。
石山本願寺攻略戦 信長の動き
1580年(天正8年)1月、「三木城」が陥落し、回りも信長軍に囲まれ、補給もない今、すでに陸の孤島と化していた「石山本願寺」。
信長はすぐにでも総攻撃を仕掛けると、皆が思っていたのに対し、以外にも前年の12月から朝廷を動かし、石山本願寺と「和睦」する動きが、すでに進んでいました。
3月にはその条件として、
①本願寺教団の維持を認め、各地の末寺などの地位を保障する
②7月20日までに石山を放棄して、全員退去し引き渡す
③二度と敵対しないと誓約するなら、加賀の2郡(江沼・能美)を返還する
というものでした。
一 惣赦免事
一 天王寺北城先近衛殿人数入替、大坂退城候刻、大子塚をも引取、今度使衆を可入置事
一 人質為気仕可遣之事
一 往還末寺如先々事
一 加州二郡(江沼・能美)、大坂退城以後、於無如在者可返付事
一 月切者七月盆前可究事
一 花熊・尼崎、大坂退城之刻可渡事
三月十七日 朱印(信長)
(「本願寺史」本願寺史料研究所編纂 浄土真宗本願寺派<西本願寺>発行)
本願寺側は3月7日、この講和条約を受け入れ、ここに本願寺との合戦は終わるかに思われていました。
4月9日、本願寺主導者である「顕如」は、石山本願寺を嫡子の「教如」に渡し、紀伊鷺森御坊に退去します。
しかし、雑賀衆や淡路衆は、石山本願寺に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地(本願寺)を離れるということは、たちまち窮乏してしまうと不安を抱き、「信長に抵抗を続けるべき」と教如に直訴、教如もこれに同調してしまします。
この時、にわかに「反信長」の体制が、新主導者である「教如」の下で体制が整えられます。
「顕如」が石山本願寺を去った後も、「教如」は水面下で信長に抵抗を続け本願寺を占拠することになります。
石山本願寺攻略戦 織田軍vs本願寺軍 布陣 戦力比較
兵力差
【織田軍】 | 【本願寺軍】 | ||
10万以上 | 不明 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【本願寺軍】 | ||
石山本願寺攻略 | 攻略阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【本願寺軍】 | ||
織田信長・佐久間信盛・佐久間信栄 他 | 顕如・教如・教証 他 |
合戦のゆくえ
この和睦成立に対し、信長は3月11日に大阪湾の封鎖を解きます。
これにより、本願寺への補給が成り、一時的(7月20日)ではあるものの、本願寺門徒は安堵します。
そして約束の完全退去の日である7月20日がやってきます。
しかし、いろんな理由を述べ、新主導者の「教如」は退去を引き延ばそうとします。
信長はしびれを切らし、期限を8月10日まで伸ばし、再度、「顕如」との交わした条件を提示します。
8月10を期限に、早急に退去せよ!
「教如」もこれに応じ8月2日に退去するまでは良かったのですが、直後に石山本願寺は出火し3日間燃え続け、伽藍のすべてを消失してしまいます。
「多門院日記」では、このことを、退去を快しとしなかった「教如」が火を付けた、と書かれています。
「信長公記」では、松明の火が風で燃え移った、とされています。
石山本願寺との10年以上に渡る合戦は、出火により大部分を消失することによって終わることになりました。
信長は8月、石山本願寺との合戦が10年以上の長期に渡ることになった原因を、本願寺攻めの総司令官である「佐久間信盛」と決めつけ、「十九の折檻状」を突き付け、その後高野山へ追放することになります。
高野山に降れ!
高野山…、そんなぁ~(泣)
討死武将
【織田軍】 | 【本願寺軍】 | ||
なし | なし |
【織田軍】 | 【本願寺軍】 | ||
補給路遮断と圧倒的兵力差
ついに10年越しの完全勝利 |
補給路の封鎖と多勢に無勢
完全撤退 |
石山本願寺攻略戦 その後 まとめ
「顕如」の和睦受け入れに対し、「教如」は門徒衆の気持ちを察してか、信長に反抗することになり、本願寺は顕如と教如の2派に分裂を余儀なくされました。
しかし、「教如」も門徒宗も石山本願寺を出ることによって決着はつき、10年以上に及んだ本願寺との合戦は終焉となりました。
その後、「本能寺の変」で信長が討たれた後、秀吉が信長の遺志を引き継ぐも、1592年11月顕如が没すると豊臣秀吉の命で「教如」が本願寺の後継となりますが、「如春」(教如母)らが、顕如の遺志にもとづき、教如の弟「准如」が後継となります。
しかしその後も「教如」は、大坂の大谷本願寺(現在の真宗大谷派難波別院)を本拠地として、各地の門徒へ法主としての活動を続けたため、本願寺は「准如」派と、「教如」派に事実上分裂します。
1602年(慶長7年)、「教如」は以前より懇意にしていた「徳川家康」による土地の寄進を受け、京都の七条烏丸に東本願寺を建て、本願寺は東西に分かれることになりました。
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