実弟「信行」との家督争い!
うつけ信長は不利に…?
戦国の世は、たとえ兄弟であっても家督争いでは「命」を取り合うもの!
信長も、兄弟争いに巻き込まれ、弟や兄を殺しています。
「稲生の戦い」(1556年弘治2年)は弟「信行(信勝)」との家督争いの中で起こった戦いです。
後の信長にとって重臣となる「柴田勝家」や「林秀貞」は、当時は信長よりも優秀で家臣からの人望も厚かった弟の信行(信勝)を、織田の当主に相応しいと企み、兄弟での争いとなったのが「稲生の戦い」です。
信長23歳、信行(信勝)21歳の時でした。
稲生の戦い 場所 合戦図
場所は名古屋市西区名塚1丁目庚申塚で、上記の図は「稲生原古戦場跡」です。
下記は各武将がいた居城の位置です。
清州城「信長」・名塚砦「佐久間盛重」・稲生原「合戦場」・下社城「柴田勝家」・末森城「織田信行(信勝)」
「林秀貞」と「柴田勝家」は信行(信勝)を織田当主にしようと画策します。
その不穏な動きに対し、信長は名塚に砦を築き「佐久間盛重」を配置し牽制します。
そして両者は、於多井川(庄内川)を渡った「稲生原」の地で激突します。
稲生の戦い 信長vs信行(信勝)軍 布陣 戦力比較
信長軍 信行軍 兵力差
【信長軍】 | 【信行軍】 | ||
700
劣勢 |
1700
優位 |
戦闘目的
【信長軍】 | 【信行軍】 | ||
離反鎮圧 | 信長抹殺 |
主な参戦武将
【信長軍】 | 【信行軍】 | ||
織田信長・佐久間盛重・丹羽長秀・佐久間信盛・前田利家・森可成・織田信房・佐々孫介 | 織田信行(信勝)・柴田勝家・林秀貞・林美作・角田新五 |
稲生の戦い 合戦 経緯
1551年、父の信秀が死に信長が家督を継ぐも、未だ終わりを統一出来ないでいる信長。
前年(1555年)の清州城攻めでは、敵対していた「織田信友」を切腹させ、尾張下四郡を統治下に収めていたものの、「大うつけ」呼ばわりされている信長の周りには、敵視する織田同族が大勢いました。
1556年(弘治2年)、信長の筆頭家老であった「林秀貞」とその弟の「林通具」、そして「柴田勝家」の3人が信行(信勝)を担ぎ、信長討伐を持ちかけます。
信行(信勝)は粛々と準備をすすめ、信長の直轄領である「篠木三郷」(現:愛知県春日井市)を押領し、さらに於多井川(庄内川)の際に砦を築き川の東側を我がものにしようとします。
これを察知した信長は、佐久間盛重に命じて於多井川(庄内川)を渡った「名塚」に砦を築かせ守備をさせます。
兄弟の間は、いつ戦いが始まってもおかしくない緊迫した状態となってしまいます。
そして8月23日に信行(信勝)が、翌24日には信長が清州を出陣し、「稲生原」で激突することになるのです。
信長軍は信長をはじめ、佐久間盛重・佐久間信盛・丹羽長秀・前田利家ら総勢700余り、一方信行(信勝)軍は林秀貞・林通具・柴田勝家ら1700余りで、信長軍は劣勢状態。
稲生の戦い 経過 勝敗
数で勝る信行(信勝)軍の「林秀貞」(700)と「柴田勝家」(1000)の部隊は東側・南側に分かれ、信長(700)を挟撃する構えに対し、信長は先に柴田軍(1000)へ突撃します。
数で劣る信長軍ですが、劣勢ながらも激しい白兵戦*となり、「佐々孫介」が討たれるも、信長の大声による叱咤が柴田隊の戦意を喪失させ、ちりじりに逃げ出します。
敵といっても、もともとは身内みたいなもの、信長の大声は柴田隊の兵を威嚇するに十分だったのです。
信長はすぐさま林隊へと向かい、信長自身が槍を取り敵将「林美作」を討ち取ります。
林美作が討たれたことで勝敗は決し、信長から下人まで一丸となって戦った末の勝利でした。
*白兵戦とは、刀剣・槍・銃剣・ナイフなどの「白刃」の武器を用いた戦闘(接近戦)のことである。
討死武将
【信長軍】 | 【信行軍】 | ||
佐々孫介 他 | 【約450名】
林美作・角田新伍 他 |
勝敗
【信長軍】 | 【信行軍】 | ||
【勝因】 信長の叱咤による信長軍一丸となった勝利 |
【敗因】 林美作討死による士気低下 |
稲生の戦い まとめ
信長弟の「信行(信勝)」を織田当主にしようと画策した「林秀貞」と「柴田勝家」。
信長と信行の兄弟による家督争い「稲生の戦い」は信長の勝利に終わりました。
信行(信勝)は居城である末森城に敗走し籠城しますが、信長母の「土田御前」に嘆願され赦免されます。
その一方で、信行(信勝)を支持し信長討伐を画策した「林秀貞」と「柴田勝家」は、信長への忠誠を誓う事で罪を赦され、その後は信長のもとで老臣の地位を保ちました。
しかし、信行(信勝)は、再度謀反を企てたので、1557年(弘治3年)11月に信長に謀殺されることになります。
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