【大良河原の戦い】信長、救援失敗!斉藤道三(濃姫父)を救えず!

信長全合戦

 

義父「斎藤道三」の救援も叶わず!

信長、返り討ちに…!

「大良河原の戦い」とは、美濃の「斉藤道三(濃姫父)」と嫡男の「斎藤義龍」の争い(長良川の戦い)後に、勝利した「斎藤義龍」が信長に兵を差し向け、大良河原(岐阜県羽島市)で起こった合戦を言います。

斉藤道三

信長の正妻である濃姫の父「斎藤道三」の援軍に向かった信長ですが、大良の地で陣を置いたものの、敵の数の多さに衆寡敵せず(義龍軍1万7500/道三軍2700)の状態で手が出せません。

やがて道三と義龍の戦い(長良川の戦い)は、義父の道三が敗れ義龍の勝利に終わるものの、義龍は信長のいる大良にも兵を向けたのです。

そうして「大良河原の戦い」は始まったのです。

大良河原の戦い 戦況

濃姫の父である「斎藤道三」と嫡男「斎藤義龍」の争いは、道三が義龍の弟である「孫四郎」と「喜平次」を溺愛するあまり、道三と義龍の関係は不仲となり、義龍が謀略により2人の弟を殺したことから始まりました。

信長は道三とは同盟を結んでいるものの、父と争いになった義龍との戦いでは、信長は道三援軍に向かわなければなりません。

信長は兵を出すものの、義龍軍の数(1万7500)は圧倒的優位で、手も足も出せない状況です。

やがて、道三と義龍の決着が付き、これで終戦かと思いきや、勝利で士気の上がっている義龍軍は、父道三の首実検を終えたあと、援軍を出していた信長にも兵を差し向けてきたのです。

大良河原の戦い 場所 合戦図

大良河原の戦いのあった場所は、現在の岐阜県羽島市正木町大浦新田とされていますが、詳細の記述がないために正確ではありません。

ただ、陣を退く際に、大河を背にして味方の兵を先に逃げさせたと「信長公記」に記述がありますので大きな川の河原であった事は間違いないと考えられています。

現在はこんな感じ。大きな川ですので、当時はもっと大きく感じたのでしょうね…。

 

織田信長覇道の全合戦

信長は道三の援軍に来てはいますが、敵対している岩倉織田家の「織田信安」信長の居城清州城下を*放火したとの報を受けます。

(*当時の岩倉織田家岩倉城主「織田信安」は上尾張四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を収めており、下四郡(海東・海西・愛知・知多を収めている信長とは敵対していました)

信長は目の前の敵と、後方にある自分の城下も備えねばならず、道三救援の長期化は避けねばならない事情がありました。

兵を向けてきた義龍軍に対し、信長両軍は「大良の河原」で激突します。

両軍とも激しい戦いとなり、信長側は「山口取手介」「土方彦三郎」が討ち死にし、また「森可成」は義龍軍の「千石又一」と渡り合い、馬上で斬り合い膝を斬られて退きます。

この状況の中、信長に「道三」討ち死にの報が伝わります

道三が討ち死にした以上、信長はこれ以上の戦には大義が無いと撤退を決意します。

信長は兵と牛馬を後方に下げると「殿(しんがり)」を自ら引き受けると言い、全ての兵を川を渡って退かせ舟一艘を残し向かってくる敵に対峙します。

義龍軍の騎馬が河原まで来ると、信長は自ら持っている「鉄炮」と、河原岸にいる鉄砲隊に同時に撃たせ応戦。

義龍軍の騎馬隊は渡河を断念し、信長は追撃を免れ清州まで退却しました。

大良河原の戦い 信長軍vs義龍軍 戦力比較

兵力差

【織田軍】 【義龍軍】
不明 不明

戦闘目的

【織田軍】 【義龍軍】
道三援軍 道三の同盟者(信長抹殺)

主な参戦武将

【織田軍】 【義龍軍】
織田信長・山口取手介・土方彦三郎・森可成・(斎藤道三)他 斉藤義龍・千石又一 他

討死武将

【織田軍】 【義龍軍】
【人数不明】

山口取手介・土方彦三郎・(斎藤道三)他

【人数不明】

結果​

【織田軍】 【義龍軍】
 

【結果】

戦いの傷は浅く引き際も見事

 

【結果】

戦いの本筋は道三抹殺、信長は二の次

大良河原の戦い まとめ

1556年(弘治2年)4月20日、道三への援軍に向かったものの、勝利した義龍に兵を向けられ戦った「大良河原の戦い」

合戦自体は引き分けとしましたが、上尾張の岩倉城主「織田信安」が義龍と組して信長の居城清州城下に放火した事に信長は怒りを露にします。

その後信安は、長男「信賢」に追放され、美濃の「斎藤義龍」を頼りますが、最後は信長に謝罪し仏門に入ることで許されることになり、信長の後の居城である安土城「総見寺」の住職となります。

 

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