最期の一向一揆戦!
加賀尾山御坊(金沢城)を落とせ!
【加賀平定戦】
5年前(1575年天正3年)の合戦で、越前一向一揆が制圧され、加賀一向一揆にも侵攻の影響が及んでいた矢先の1580年(天正8年)3月、本願寺門徒の総本山である「石山本願寺」が信長と和睦します。
そのため形式上は、加賀一向一揆衆にも停戦命令が出されたものの、本願寺側は急主導者の「顕如」と、新しく主導者となった子の「教如」に二分されていました。
どっちつかずの中、迷いながら抵抗を続ける加賀一向一揆衆。
もともと加賀の地は、100年以上に渡り一向一揆衆が治めており、「自国(持国)」としての意識を持ち、独自の文化と繁栄を続けていました。
そのため、総本山の石山本願寺が落ちても、信長軍と対抗する、独自の道を探っていたのかもしれません。
しかし、信長の北陸方面侵攻の司令官である「柴田勝家」が11月17日、加賀一向一揆の主導者である19人を「松任城」に招いて、これを謀殺。
こうして行われた、信長軍の加賀一向一揆S軍の平定戦を「加賀平定戦」と言っています。
加賀平定戦 尾山御坊(金沢城) 場所 アクセス
尾山御坊(現金沢城)は、石川県金沢市丸の内にある城です。江戸時代、加賀藩主「前田氏」の居城として栄えました。
金沢城址は国の史跡に指定されており、城址を含む一帯は、金沢城公園として整備されています。
加賀平定戦 尾山御坊攻略 織田軍の動き
すでに総本山である「石山本願寺」は落とされ、時間の問題ともいえる状態で、「柴田勝家」は一計を案じます。
11月17日、講和にかこつけて、一向一揆衆の主導者である「鈴木出羽守(雑賀孫一の一族)」「若林長門守」ら19名を、尾山御坊から程近い(約8キロ)「松任城」に招きます。
加賀平定戦 織田軍vs加賀一向一揆軍 布陣 戦力比較
兵力
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
4万 | 不明 |
戦闘目的
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
加賀一向一揆平定 | 平定阻止 |
主な参戦武将
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
柴田勝家・前田利家・佐々成政・不破光治・佐久間盛政 他 | 若林長門守・鈴木出羽守 他 |
合戦のゆくえ
「柴田勝家」は、鳥越城の守将であった「鈴木出羽守」が、講和のために「松任城」に出てきた隙に、「鳥越城」と支城である「二曲城」を攻め立てます。
この2条を落城させると同時に、松任城にいる「鈴木出羽守」以下19名の門徒主導者らを捉え、ことごとく処刑。
その首を安土の信長のもとへ届けます。
信長は首を松原町(安土城下町)で、城下の民に晒されます。
本願寺を失い、主導者たちを失う事になった加賀門徒たちは、もはや織田に対する能力はなく、100年以上に渡り支配された加賀は、織田軍によって平定されました。
討死武将
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
なし | 鈴木出羽守・若林長門守 他 |
【織田軍】 | 【一向一揆軍】 | ||
謀略による勝利 | 謀略があったとはいえ、敗戦は時間の問題だった |
加賀平定戦 その後 まとめ
柴田勝家の謀略により、平定された加賀一向一揆。
100年もの間続いた「一向一揆の国」だけあって、抵抗はさらに続くことになります。
翌年1581年(天正9年)にも山内の一向一揆が、織田方に奪われていた「鳥越城」を奪還。
佐久間信盛が鎮圧するも、完全に駆逐するまでは、さらに翌年の3月までかかることになり、最期の門徒衆300人が磔となりました。
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