信長不覚!
美濃攻略に暗雲が…。
昨年(1565年9月)の、「堂洞合戦」により、「中農三城盟約」を打ち崩し、堂洞城・加治田城・関城を開城させ中濃地域を制した信長ですが、翌年(1566年永禄69年)の4月には加賀見野(今の各務原市)へ侵攻するも、斎藤龍興との間で決着はつかず、ひとまず撤退しています。
タイトルにもあるように、「河野島の戦い」というのは、信長史を語る上でもっとも信頼性の高い史料「信長公記」には記載がなく、合戦としての資料は斉藤方に残る連判状しか存在していません。
この書状というのが、美濃三人衆である「安藤守就(あんどうもりなり)」・「稲葉一鉄(いなばいってつ)」「氏家卜全(うじいえぼくぜん)」と「日根野弘就(ひねのひろなり」「竹腰尚光(たけこしなおみつ)」の連版した書状の中の一つで、甲斐国「快川紹喜」に宛てた書状に記載されています。(中島文書)
書状の内容は、「足利義昭公上洛の際に信長が付き添い、斉藤方は美濃を安全に通れるようにしたものの、信長がまったく動こうとしない旨、信長は天下の笑いものになっている。・・・」と続き、内容はさら後半へと続いています。
その後半部分の文章に、「河野島の戦い」に関する文章が残っているのです。以下後半の部分を記します。
永禄9年8月29日(1566年9月12日)、信長は美濃国境まで進軍したが、予期せぬ出水に遭遇し、木曽川を渡って美濃国境の「河野島」へ入った。
それを知った斎藤龍興は直ちに河野島へ進軍し、織田側は川べりまで後退して布陣し相対した。
斎藤側は境川を限りとして守備したが、翌30日に木曽川が洪水となったため、両者は動きが取れなくなった。
ようやく水の引いた8日後の閏8月8日(9月21日)未明、織田側は撤退を始めたが、多数の兵が川で溺死した。
斎藤側はその残党を川際で討ち取った。
織田軍は武器を捨てて退散するという有様、前代未聞の事である。
この連版状の後半部分に書かれた文章が「河野島の戦い」が実際に行われたという唯一の文章です。
今では、河野島という地名が無く、場所もはっきりとしませんが、大まかでは現在の岐阜県各務原市と言われています。
美濃との国境であった「河野島」とはいったいどの辺りをいうのでしょうか。
河野島の戦い 場所 地図
資料が乏しく確定はできませんが、「木曽川が洪水となったため、両者は動きが取れなくなった」という文章からして、場所は現在の岐阜県各務原市木曽川辺りと言われています。
木曽川は以前より増水が起こりやすく治水に困難な地形だったようです。
河野島の戦い 織田軍v斉藤軍 布陣 戦力比較
1566年(永禄9年)閏8月8日(9月21日)に洪水となった木曽川の増水が治まり、信長は撤退を始めますが、それを気に斉藤方が川際で迎え討ちします。
合戦図
兵力差
【織田軍】 | 【斉藤軍】 | ||
不明 | 不明 |
戦闘目的
【信長軍】 | 【斉藤軍】 | ||
美濃侵攻 | 侵攻阻止 |
主な参戦武将
【信長軍】 | 【斉藤軍】 | ||
織田信長 他 | 不明 |
河野島の戦い 合戦の行方
1556年9月12日(永禄9年8月29日)、信長は美濃侵攻の為、美濃国境まで進軍しますが、木曽川の増水により「河野島」に入ります。
報せを聞いた「斎藤龍興」は兵を上げ河野島へ進軍します。
両軍は木曽川を挟み対峙するものの、翌日の9月13日(永禄9年8月30日)に木曽川の大洪水により、両軍は身動きが取れない状態に陥ります。
ようやく水が引き始めたと思われた9月21日(閏8月8日)未明に、信長軍は撤退を始めたものの、まだ洪水は治まっておらず、多くの溺死者が出てしまいます。
斉藤側は川を上がってきた織田方の兵を川際で討ち取り、織田兵は武器すら投げ出し逃げていくことになりました。(中島文書・織田信長全合戦記録:谷口克広)
討死武将
【信長軍】 | 【斉藤軍】 | ||
不明 | 不明 |
河野島の戦い 結果
1566年(永禄9年)閏8月8日(9月21日)、織田軍は武器を投げ出し退散。
【信長軍】 | 【斉藤軍】 | ||
【敗因】 増水による溺死者多数 |
【勝因】 川際での織田兵借り |
河野島の戦い まとめ
「中農三城盟約」を討ち破り、中農地域を制圧し美濃侵攻を進めた信長でしたが、思わぬ木曽川の増水により足止めを喰らい、撤退の際には斉藤方に討ち取られた格好となりました。
史料が乏しいため推測ですが、信長軍の敗因は、軍を「河野島」に留め置いた場所自体が、木曽川の「中州」のような場所ではなかったか、と推測します。
理由として、「河野島」が中洲のような場所であった為、孤島となり、その後8日間、信長軍は身動きも取れず、食料等も尽き果て、いわば強引に撤退(未明夜間)を開始するも増水は治まっておらず溺死者が続出したのではないかと考えられます。
文章に「斎藤側はその残党を川際で討ち取った」という記述からして、運良く?渡河出来た兵も、そこ(川際)には斉藤側がいて、織田軍はことごとく討ち取られたということになったのではないでしょうか…。*斉藤方文章なので大袈裟な表現もあると考えられますが…。
織田軍にとっては、「悪天候に阻まれ(木曽川洪水)、武運(対峙した場所が木曽川中洲?)もなかった」合戦となったのではないでしょうか。(あくまで推測ですが…)
この「河野島の戦い」は信長公記に記載のない合戦ですが、当時敵対する斉藤方の連版書の記述を元に、合戦が行われたものと判断致しました。
結果は信長の「敗戦」と結論付けました。
しかし信長の美濃攻略は、これくらいでは諦めません、まだまだこの先も続くことになります。
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